誰かの話をしようか、



 広すぎる校内で、ひとのいない場所を探すのはさほど困難でもない。特別教室も、そこへと続く廊下も階段も踊り場の隅も、夏休みを目前にしたこの時期にもなれば足を運んでくるひとのほうが珍しいくらいに閑散としているものだ。
 代々誰かが屋上の鍵を握っている、なんて中学時代の延長のような話には、最新設備を誇るこの高校はあまり縁がなかった。授業を抜け出して集まるようなひとたちがいないといえば嘘になるのだけれど、そういう彼等の格好の場所は裏手に幾らでも広がっているし、その気になれば街中に繰り出せばいいだろう。それでも視聴覚室とパソコン室と部室棟とそれから、幾つかの扉を開ける方法くらいは知っているなんて人様に言えないような知識ばかりは卒業生から引き継がれてもいたものだ。だからといって、いまのところ特別、何かに役立ったこともないのだけれど。
 まあ、そんなことをしなくても、使われもしない特別教室の鍵がそのまま開け放たれているものなのだ。これ幸いとばかりに昼休みに集団を抜け出して、空き教室に潜り込むのは俺の、この頃の日常茶飯事でしかなかった。
 別段、いつでもひとりでいるというわけでもないのだけれど、ふらふらと彷徨うことも周囲にはもう俺自身のキャラクターのように受け入れられていた。

 喧しいチャイムに起こされて身体を起こすと、壁にかけられている時計は予想よりも随分と遅い時刻を指し示していた。欠伸を噛み殺すように洩れた声が微かに口の中でかわいて掠れている。
 じりじりと窓の外を焦がす陽射しには変化のひとつも見られないのに、連日の徹夜が祟ったのだろうか。昼を食べてそのまま、空き教室の片隅で本格的に寝入っていたらしい。ばきばきと違和感を訴える背中に唸るように伸びをすると、座ったままの椅子が軋む音を響かせる。
 元々夜型の生活を好んではいるのだけれど、それにしても寝不足が続くのはどう考えてもこのところ余計に人使いの荒い友人―というには少しばかり御幣がある気もする―黒沼青葉の所為だろう。このところ鳴りを潜めていたのが嘘のように、夏休みの前哨戦とばかりに俺たちの周囲は喧しさを増していた。
 ブルースクウェアというカラーギャングの名前なんて、知らないやつのほうが大半の校内で、その活動が話題になることはなかった。
 それでも有象無象の集団になりつつあるダラーズに所属しているやつはそれなりにいるのだろうけれど、危ないことに首を突っ込むような輩とは無縁のような生徒が殆どなのだ。まあ、そんなことを言ってもそのダラーズの創始者も、かつて見たことのある黄巾賊の「将軍」もこの学校にいたというのだから、考えてみるとずいぶんと可笑しな話だ。それとも、池袋の街には奇妙なものを惹きつける何かがあるんだろうか。
「……ま、なんでもいいけど」
 放り出したままの携帯電話を開くと何度か呼び出してくれたのか、クラスメイトからの着信履歴で画面が埋まっている。
 やっちまった、とやる気もなく口先だけで呟いてからそのまま欠伸を噛み殺しながら身体を起こして特別教室を抜け出すと、静まり返っていた廊下がゆっくりとざわめきを取り戻していた。
 いまから行けば六時限目には間に合うだろう。
 別に休んだってサボったって構わないのだけれど、そればかりはどうにも躊躇う性格なのだから仕方がない。出席日数くらいは稼げるときに稼いでおこうとおもう程度には小物なだけなのかもしれないけれど。
 コンビニ袋をひとまとめにして廊下のゴミ箱に放り込んでから深呼吸を繰り返せば、寝不足だった頭が随分とすっきりしている気がした。
 幾つか届いていたメールを開いてみるとどれもこれもが似たような内容で、然して事態は発展も前進もしていないのだと知るだけだ。数人に「いま起きた」とだけのメールを送ってから、軽く肩を竦めるようにそのままポケットに突っ込んで足を向けた廊下の向こうに日常が広がっている。
 授業なんて聞いていてもいなくてもテストの点数がとれるだなんて言ってのけるような才能には残念ながら恵まれているわけでもない。それでもあとは夏休みを待つばかりの校内に、授業などあってないようなものだった。別段部活動にも委員会にも所属しているわけではないような俺たちからしてみれば、さっさと休みに入ってくれてもいいだろうと思うのだけど。
 ひとのいない場所を好んでうろついているのは、別に煙草を吸いたいわけでもなければ授業をサボりたいわけでもない。まあ、こうして結果的にサボっているということは不可抗力だということにしておくとしても。不真面目でも真面目でもなく可でもなく不可でもない。そんな、何ら特筆すべきものもないような一般生徒の一人でしかないのだ。俺は。
 それでもこっくりこっくりと授業中に舟を漕ぐのばかりは簡単に止められないものだから、いつだって寝不足な頭を抱えていることくらいはクラスメイトの大半が知っている話だった。それでも別に、そんなことは俺だけでもないし、こんな時代に授業中に居眠りをしている生徒なんて数えればきりがないだろう。
 パソコンに向かう時間を減らすのはなかなか難しいし、そもそも日常生活習慣の改善は言うほど簡単な話ではないのだ。結果としてぷかぷか寝息を吐きだす羽目になったってまあ、一年ならば進路に影響するわけでもない。
 池袋周辺では指折り数える程度のレベルに値する来良学園だけあって、それなりに頭の良い人物が多いというのは別段勉学に関する話だけでもない。余所の土地からやってくる生徒も多い所為だろうか、過度な干渉をしない連中ばかりなのは居心地が悪くもなかった。馬鹿みたいなことばかりしているやつらだって個人的にはそこそこ気に入っているのだけれど、まあ、そういうのとは何処か違った話だろう。何をしているのかと深みにまで足を踏み入れない程度の距離感が、丁度良く日常を支配していた。

 ブルースクウェア、と名乗るのをやめたのは随分と前のようで、そうでもない。それでも、中高生にとってみれば数年間は結構な長さでもあったのだ。カラーギャングと呼ばれるその集団が形成されたのは俺たちがまだ中学にあがるよりも前の話だと、いまになって考えてみれば世も末な話だ。
 それは当時流行したドラマの影響もあったのだろう、あの頃、この街は黄色と青色に染められていたものだ。俺たちにはまだ、怖いものなんてなにもなかったのが、もしかしたら背中を押していたのだろうか。きっと、快楽に夢中になってなにも考えていなかったと言っても過言ではない。
 似たような仲間たちでつるんでいたのが、いつからそんな風に変わっていったのかなんて今更、あまり考えることはない。気付いた時には策略を得意とした青葉を中心にすべては変わっていた。 
 愉しければそれで良かったし、多分、それはいまでも然して変わらない。俺たちはまだ子供で、だからできることもできないことも山のようにあるのだ。


 あの頃、この街でカラーギャングといえば必ず名前が挙がったブルースクウェアはやがて、俺たちの手には余りつつあった。鼠算的に増えていった仲間たちは次第に、コントロールを失うくらいの数になっていたものだ。呼んでもいない先輩たちが派閥を作り始めた頃合いだっただろうか。ゆっくりと離れるようになったのも、ちょっとした火種を撒くように動き始めたのも。あの男がそのリーダーに収まったのも。
 大きくなりすぎた荷物を捨てることを青葉が選んだろうと、いまになればわかるそれを、当時は何処まで理解していただろうか。騒ぎを起こそうとその策に乗ったのは、ただ、勝者になる優越感を忘れられなかっただけかもしれない。いつでも彼がもたらすものだけは、俺たちの期待を裏切らないと知っていた。
 いまでも、何ら変わっていない友人たちと、これはちょっとした遊びの延長なのだ。
 この街を舞台に俺たちが何が出来るだろうかと、毎日のように考えている。そこに立っているのは自分とは違う誰かのような錯覚にも乗じて、日常と化した非日常に溺れているのだ。
 ダラーズの創始者をリーダーにするなんて、その案にも何が籠められているのかなんて、深く考えるまでもなかった。決断するのも考えるのも俺の役目ではないと、言えるくらいにはいつだって、その向こう側に何かを委ねている。

「……あれ、」
 あえて避けていたのかと言われると否とは言い切れないものもあったのだけれど、そもそもこの広い校内で顔を合わせたこともない奴らなんて山ほどいるものだ。
 軽く目を丸くしてから笑いかけてくる無防備な相手に思わず、堪え切れない溜息がこぼれるのは自然だろう。きっと第一印象以上に二度目のインパクトが強烈すぎるからいけないのだ。
 いつでも自分の記憶とのギャップに、少しばかり戸惑う羽目になるのはきっと、自分だけではないだろう。何処からどう見ても至って平凡な、優等生のような顔をした彼が俺たちの「リーダー」だなんて冗談みたいな話だ。まあ、そうは言っても結局のところ彼の命令は青葉を通じて俺たちに入ってくることがまだ、大半だった。むしろ顔を覚えられていたのか。なんてほうに驚くべきだろうか。
「……ああ。先輩、どうも」
 やけに多いプリントを抱えているあたり、先生か誰かに頼まれたのだろうか。
 このひとはもしかして要領が悪いのだろうかと、思わずにいられない。淀むように口ごもる俺のことなどまるで気にしないように瞬いて、そっと首を傾けるように見上げてくる表情が少し和らいだ。
「きみ、来良だったんだ」
「ええ、俺と数人程度ですけどね。あいつら馬鹿ばっかなんで……って、大荷物ですね、何処か持ってくんですか? 少し持ちますよ」
「え、いいよ悪いし」
 青葉と、学内で話をしたことはなかった。
 それは別に深い意味があったわけでもない。俺たちはまるでただの顔見知りのような素振りを、小学校高学年の頃から自然と続けていた。いかにも優等生然とした彼と、自分たちでは少しばかり印象が違うというのもあったし、そのことがいざという時に面倒にならないと知っていたからだ。
 だからまあ、このひとにしたって、俺たちには表向き、何ら関わらないだろうと思っていたのだけれど。試すようにそうかけた言葉にも遠慮がちに返ってくる言葉に何ら含まれるものがない。思わず毒気がぬかれたように溜息が洩れたのも肩を竦めたのも、ちょっとした反射運動だ。
「別に、通りかかったら誰でも手を出しますって」
 そういえば校内でも外でも初めてちゃんと話をした、と思うと同時に、耳慣れた声が少しだけ普段は聴かないような声色で廊下に響いていた。
「―先輩、」
 自然と「青葉くん」だなんて笑う調子で足を止めた先輩に、じゃあ、と軽く挨拶程度の声を残して廊下に足を向ける。
 集団から別れてこちらにやってくる青葉に擦れ違いざま軽く手を振ってから階段へと足を進めた。背中の向こうでも同じようなやりとりをしているような様子で、思わず口許が笑う息を吐きだした。


「なにみてるの?」
 妙に長かったホームルームが終わる頃にはもう他のクラスは思い思いに散っていて、ぼんやりと視線を投げた先の校庭を見慣れた相手が何人も歩いている。長い髪を結んだクラス委員の少女が声をかけてきて、頬肘をついたまま瞬くように見返すと、何か言いたげに見上げるように目端にうつっていた青葉が先輩の後ろをかけるように校門へと消えていった。放課後の街に繰り出すということは何かやるつもりだろうか、と頭の隅で考えながら口許が自然と愛想の良い笑みをつくっている。
「……あれ、黒沼くんだ、仲いいの?」
「うん? いや、中学いっしょだったんだよね」
「へえ、そうなんだ。わたしも委員会で会った程度だけど、可愛い子だよね。あ、男の子にこういう言い方は悪いか」
「はは、確かに。本人聞いたら怒るかも。あ、これでしょ。ちゃんと持ってきました」
 机の中を探って書類を取りだすと、少しだけはにかんだ彼女の細い指先が丁寧に拾い上げていく。
「うん。ありがと、次はちゃんと期限守ってよね」
「はいはい」
「はい、は一回でよろしい」
 わざとらしい会話に周囲がからかうように声をあげる。なんて、随分と平和なのだ。この町も世界も、なにもかもすべて。俺の日常なんて。

 ざわざわとした廊下を抜け出して、携帯電話でダラーズのサイトを覗いてみる。
 幾つかの掲示板に潜り込むのはこのところの俺の役割で、釣針の餌としては格好だと言われる程度には目立たずに煽るのも得意なほうだった。なにを以てそう判断されているのかなんてことも、あのリーダーが考えているのかそれとも青葉が決めているのかなんてことも、知らないままなのだけれど。夢中になったふりをして、それでも何処か意識の隅がまだほんの少し冷めている。
 相変わらず下らない掲示板のやりとりは少しずつ現実味を帯びていて、動き出すのも時間の問題だろう。煽りたてるように適当なコメントを打ち込みながら昇降口を抜けた。
 まるで忠実な僕のような顔をしてみせる青葉が何処まで本気なのかはわからない。ゆっくりと牙を磨いているのならば、文句はないのだけれど。もしかしたらただ深い海に溺れるのは俺たちなのかもしれない。それでも、あいつが招くならば一寸先が闇でも構わないと、思うのはちょっとした中毒症状だろうか。
「……もしもし?」
 震える携帯電話の画面が見慣れた名前を表示して、思わず咽喉が微かに笑う息を零す。

 それでも残念ながら俺は決断する役割じゃないものだからまだ、息を潜めるように合図を待っているのだ。