ハルモニア
もうだれもいなくならないでほしい。
物心ついた時の記憶なのかもしれない。こんな風に、肌にまとわりつく繊維がうっとおしいと思う生温い風に吹かれると思い出す光景があった。
白昼夢とも違って、瞼の裏側にフラッシュバックする映画の一コマ一コマを切り取ったような画のBGMは風に乗って聞こえてくる救急車のサイレンの音。
音は毎回同じなのだけれど、浮かんでくる画は毎回異なる。切り離されたフィルムのような一つ一つを、時間軸に添って並べてみたら何かのストーリを紡ぐのだろう。そう思うほど、毎回フラッシュバックする画は異なり、それでいてある一定の背景と登場する人間の少なさから、そう長い時間を切り取ったもので無い事も容易に推測出来た。
確実に自分の内側にあるであろう風景をそれ以上掘り下げないようにしている。思い出したくないものな訳ではない。思い出そうとしたら、どこか甘酸っぱい匂いがして、胸の奥が喜ぶように震えた事もあった。
今の自分には必要ない。
いつからそう決めて無理に思い出す事もなく、時折思い出したように上映される1シーンだけのショートフィルムをどこか楽しみにもしていた。瞼の裏側にそれが映るタイミングには何の共通点も法則も無かった。
全てを知る必要など無い、そう思って瞳を閉じてまた開く。そうすれば自分の暮らすいつもの風景が広がるばかりで何も変わったりはしない。
瞼の裏側に封じ込められた甘い香りは何処にも逃げ出す事はなく鼻腔を通り抜けて喉に戻り、胸の内側へと戻っていく。また、自分の内側へ一つのピースが戻る。
無意識にこくりと喉を鳴らす。異物を飲み込んだ時のように、飲みたくない薬を無理矢理に水で飲み込む時のように。
広くは無い自分の生活空間の内では何処に何があるかを全て把握していた。そして、そうしないと一人暮らしという物は成り立つはずもなかった。だから、この部屋の中で想定外の出来事が起きることなど、少なくとも今日までは無かったのだ。自分で買ってきたペットボトルのミネラルウォーターは、自分が飲まないと減りはしないし、誰かに、少しだけの贅沢と称したプリンを食べられてしまう事も起こりようが無い。
冷蔵庫の中を覗きこんで、ミネラルウォーターしか飲む物が無いのに少しだけ小さい溜息を落とした。唯一味気のあるピンクグレープフルーツのジュースは今日の朝食代わりに飲み干してしまっていた。近くにコンビニはある。今のうちに買いに行って来ようか、と思考が巡るのは、仮にも客人をもてなすのにミネラルウォーターはいかがなものだろうか、と思ったからだ。
今日行われた小テストのために少しだけいつもより夜更かしをした。それに付き合ってくれたのは昔から自宅で家で飲んでいる茶葉。空っぽになった紅茶の缶をゴミに出すのは明後日。シンクの横に置きっぱなしにしておいた缶に八つ当たりをするように指先でつつけば、お決まりの金属音がキンと響く。やっぱり何か買って来よう。水しか無いのかとか言われるのも、思われるのも嫌だし。
溜息をついて、身体の向きを変えればドンガラガッシャーン!と漫画の中の様な音が鳴り響いた。思わず身体がびくりと震える。
想定外というより聞いたことの無い音だ。少なくとも自分は、あの狭いバスルームの中でどうやったらそんな音を出せるのか分からない。何か壊れただろうか。いや、それよりも。
「大丈夫?何か、凄い音したけど」
怪我なんてしていない?
「正臣」
コンコンとバスルームの薄い扉をノックする。初めてこんな風にこの扉を叩いた。そう思いながら帝人は内側にいる客人の返事を待つ。ひっくり返るようなスペースもないだろうけれど、頭なんかぶつけていたら大変だ。そう心配せざる得ない程の音だったのだ。
「正臣?」
返事が返って来ないので、もう一度名前を呼ぶ。
言葉と言葉のレスポンスに関しては自分よりも正臣の方が速度が速かった。だからこそ、不安になってもう一度右の拳で扉を叩く。コンコンコンコン。
「うあー。大丈夫だからー、ちょっとごめんー待ってくれー」
「正臣?大丈夫?どうしたの?」
「あー。シャワーでごーんってなってぎゃーとなったら、ゴツンってなったわ。悪い。ここにあるタオルでその辺拭いて良い?」
何だか、要領を得ないけれど想像出来る範囲の出来事であって、何よりバスルームの内側にいる正臣は無事のようであったから、帝人は安堵の溜息を吐いた。
「いいよ。引っかけてあるやつでもいいし、トイレの脇にあるバケツに雑巾かかってるからそれも使っていいから。てゆうか、むしろそっちを使って欲しいかも」
「おう。あぁ、これね。分かった。悪い悪い」
「良いって。ちょっとコンビニまで行ってくるけど、正臣何か食べたいものとか飲みたいものある?」
「んー?えーと…水でいいや」
「あ、そう…」
何となく脱力しながら財布を手にして帝人は近所のコンビニまで行くために玄関へと向かった。ボルビーックー!と聞こえたのは気のせいでは無いけれど返事を返すタイミングは扉の閉まる音と重なってしまっていた。
学校帰り、いつもと同じように特に目的も無く街をふらついていた二人は突然の通り雨に見舞われた。運良く、店先の屋根にすぐに飛び込む事が出来たためにさほど濡れネズミになることもなかったのだけれど「ダメだー!これじゃーダメだ!」と自分の襟ぐりを引っぱりながら頭を抱えるという高等技術を用いた正臣が嘆き始めた。
「何?ハンカチ貸す?」
「おー。サンキュ。いや、でも駄目だ。もう最悪だ」
「何で?とりあえず暫く待てば雨止みそうだから、ここで待ってればいいんじゃない?」
何かを過剰に嘆いている正臣から、ビルの隙間から見える空を伺った帝人は通り雨と判断して、自分の肩についた僅かな水滴を手で払う。ほんの少しだけ制服の色が濃くなるけれど、この雨が止む頃には乾いて元の色を取り戻すだろう。帝人にとっては何も最悪な事態には落ち行ってはいなかった。
けれど、隣の正臣は事情が違うようで「あーどうしよー」と明るい色の髪をくしゃりと自分で掻き混ぜながら唸っている。
どうしたのか?としゃがみこんでしまった正臣に何度目かの質問をしたところ、ぐい、と制服のネクタイを掴まれる。
「よし!今からオマエんちに連れて行け!」
「どうしてそうなるの?雨だって、すぐ止みそうだよ」
言っている側から雨足は弱まり、アスファルトの上には蒸気すら漂い始めている。虹が出るかもしれない。ビルに隠れて見えなくなってしまわないだろうか、ともう一度視線を空に投げる帝人の腕を握りながら、引き上げるような反動をつけて正臣は立ち上がった。
「今から帝人の部屋にいって、シャワーを浴びる!俺んちより近いから!シャワーを浴びないとだめだから!異常!!」
決定事項を通達するかのようにいきなり言い捨てられてしまって。
もう決められた事だから、さぁ、案内してと言わんばかりの正臣は腕を広げてご案内〜としている。実際に案内するのは自分の方なのに。何が何だか分からないうちに、自分の部屋に行くことは決定なのか、と溜息をついて少し猫背になった帝人の背中をバンバンと正臣が叩いた。
「ほら、帝人!あそこ、虹出てる」
「あ、見えた…」
ビルの間にかかった虹は何の架け橋になるのだろう。通り過ぎた雨はもうその姿を消して、待ってましたとばかりに勢いづいた太陽が辺りを照らす。
行こうぜ、と導きを促す正臣の髪がやけに眩しく映って目を細めれば、虹の色がやけにくっきりと、重なり合う境界すら見えそうで思わず瞬きをする。七色がきちんと見えたと思ったのは一瞬で瞬きの後、帝人の目に映った虹はいつもと同じで三色程度しか認識できなかった。
それで良い。
ワンフォーテンとキャンペーンの文句の書かれたミネラルウォーターを数本といつもの物ではないけれどお茶のティーパック。それからアイスを数種類買い込んで、自分の部屋に戻れば部屋の真ん中に座り込んだ正臣が見慣れたタオルで髪を拭いていた。
「大きいほうで拭けばいいのに」
靴を脱ぎながら小さく唇の端で笑って言えば「おかえり」と声がかかる。誰かに帰宅の挨拶をされたのは久し振りで「ただいま」と本来の順番からは逆になってしまうけれど帝人はそう返事をした。ただいま、と言う習慣を少し疎かにしていた自分に気がついて、口元を掌で隠した。
「これで良いんだよね?」
「あー。ありがと。ゴメン、一応風呂の方確認してもらっていいか?元通りにしたつもりだけど」
「分かった。見てくるよ」
出際に聞こえた正臣の声が訴えていたミネラルウォーターのペットボトル一本を手渡し残りを冷蔵庫にしまう。アイスもとりあえずはしまっておいて。自分用と、一応客人のもてなしのためにお茶を淹れるためのお湯を沸かす。本当は薬缶で沸かすのが一番良いし、美味しいのは分かっているのだけれど、諸々の事情でテイファールの電気ケトルが最近の味方だ。時間も早いし、その時その分だけという利便性が優った。こうやって少しずつ、自分の習慣も変化していくのだろうか。スイッチを入れてから、浴室へ向かえば特に大きな変化があるようには見えなかった。
しいて言えばバスマット代わりに敷いておいたバスタオルと、もう一枚のバスタオルが濡れていること。きっと辺りを拭くのに使われたのだろう。絞ってきちんと畳んでバスタブの縁にかけられていた。特に何か文句を言うような状態にはなっていない。
「大丈夫だよ」
「そう、良かった」
「正臣は?どこかぶつけたんじゃないの?平気?」
「頭の後ろのほうぶつけたような気がするけど、別になんともない」
「頭は後から怖いよ」
「これ以上悪くならねぇだろ…って、そこで真面目な顔になるなよ」
どん、とドツいてきた正臣の表情はいつものように笑っていたけれど、まだ半乾きの髪の色が見慣れている明るさよりも幾分暗い色に見える。帝人には見慣れたタオルでタオルドライをしている正臣の、その髪色が暗く落ち着いたトーンで有ることでまるで別人、もしくは自分を置いて正臣だけが年齢を重ねてしまったかのように大人びて見えた。
「帝人?どうした?」
白いタオルの隙間から呟かれた声はいつもの正臣の声だ。高校に入学してから耳の中で再生されるようになった声を幼い記憶の中の物と置き換えてから、今の正臣の声が「正臣」だときちんと認識することが出来ている。それなのに目の前にいる正臣がまるで知らない人のように帝人の目には映った。耳に入ってくる正臣の声も。聞いた事のない「正臣の声」だった。
「帝人?」
正臣が自分を呼んでいる。
それは分かるのに、返事を返すことが出来なくて、誤魔化すようにお湯が湧いた事を告げた電子ケトルの前に移動した。完全に湧き上がる前に止める位でお茶を淹れるのには丁度良い。
「ごめん。今、お茶淹れるから」
「…良いって。これ、買ってきてもらってるし」
「暖かいもの飲んだ方が良いよ。まだ、髪濡れてるから。ちゃんと乾かさないと風邪引くかもしれないし」
背中越しに交わす会話の中から、鼓膜を揺らす正臣の声を拾いあげて自分に認識させる。正臣の声だ、と。良く使う単語を登録するように染み込ませてゆけば現実が血の巡りと同じ速度で回転し始める。薄いガラスの窓の向こう側から聞こえるのんびりとした車のエンジン音よりも早く、脈打つ鼓動を目を閉じてカウントしてから振り返る。
どこか心配そうな瞳で自分を見てきた正臣の髪は、もう大分乾いてきているのか「いつも通り」に近くて酷く安堵を覚える。
丁度部屋の真ん中辺りに座っている正臣の隣に座り、二人の間に小さなお盆を置いた。マグから立ち上がる湯気は線香の細い煙にも似ている。
「少し熱いかも」
そして、こんなコップしかなくてごめん。
必要最低限の、自分一人が暮らして行けるものだけで良いと思っていたから誰かのための物なんてこの部屋には無かった。それで十分だった。
「良いって。いきなり上がりこんで風呂貸してもらってんのはこっちなんだからさ」
ふわん、と隣というか正面に座った正臣から漂ったのは自分と同じシャンプーの香りで、それはいつもの正臣の物ではなかった。
「それは良いよ…てゆうか、いきなりシャワー浴びたいって何かあったの?」
突然の雨に降られるまでは、いつも通りの正臣だったし、特に何も変わったことなど無かったように思えた。少なくとも自分には。
白い湯気が立ち上るカップに手を伸ばした正臣は、少し躊躇したような表情を浮かべたけれどある程度帝人の疑問の言葉を予想していたのかもしれない。口元に小さな笑みを浮かべて、マグを両手で包み込んだ。
知らない、見たことの無い表情で。
「だってさー。いきなりあんな雨に濡れちゃって、色々狂ったんだよね。俺の中で」
「…予定とか?そういうこと?」特に何の予定も無かったはずだけれど。
「うーん…何だろう。想定外の出来事で足止めくらったりするじゃん。それに似てるかもしれないけど、あの雨が原因でさ。もしかしたら、交差点歩いてたらスリップしてきたチャリンコに突っ込まれて頭ぶつけて死ぬかもしんないじゃん?」
「それは確かに予定にないね…」
「あと、あの後に運命の出会いがダダダダーン!ってやってきたりしても、雨に濡れて汗くさい俺とかかわいそうじゃん!出会う女の子が!出来るならベストの状態で出会いたいじゃん!」
言葉の内容と、その勢いと。正臣の表情は裏切っている。
マグを包み込む手は片方だけになっていて、もう片方は頬に寄せられて頬杖をつくような、大人びた姿勢でいつもと同じように子供の特権を振りかざすような事を言う。
「雨を、流したかったってこと…?」
白い湯気は二人の間の僅かな距離を示すために立ち上る狼煙。
その向こう側で少しだけ正臣が瞳を見開いてぱちぱちと瞬きをした。酷く、悲しそうな。
「そうかもな…」
「そっか…」
つきり、と瞼の裏側が痛む。マグカップを手にして一口だけ含む。
「ごめん。あんまり美味しくない」
「ん?そうなの?」
「うん…やっぱりいつものじゃないとダメかも」
シンクに置きっぱなしの空の缶を見ながら呟く。正臣が言うベストの状態の方が良いというのは理解出来る。
「帝人、おまえその肘の所どうした?」
「え…?あぁ、これね。覚えてない?正臣も一緒にいた時に作ったやつだよ。ほら、校庭の端っこの鉄棒」
もう今は痛みもなんともない傷跡。綺麗に治るかと思っていたけれど、そう上手くもいかないらしく、場所が場所なので自分で見ることはあまり無かった。
「あぁ、あん時の…残っちゃったのか…」
「うん。まぁ、あんまり気にならないけどね」
「でも、こんなに大きかったけか?」
「何か、背が伸びるのと一緒に大きくなってるのかなぁって感じ…」
火傷の跡のように。
正臣が気になるようだったので、袖を伸ばして肘をしまった。大した事ではないのだ。塞がらない傷口を共有する必要なんて無い。
この街の何処に行けば、いつも飲んでいた茶葉を買えるだろうか。自分にとってはそちらの方が重要で、冷凍庫にしまったアイスの存在も忘れかけていた。残っているティーパックは明日には捨ててしまうかもしれない。もうきっとお湯を注ぐことはない。
「虹、こっからでも見えたのかなぁ…」
マグをお盆の上に置いた正臣は立ち上がり、窓に寄り添って外を眺めている。雨はもうすっかり止んでしまっていて、虹だってとっくに消えてしまっているだろう。
どうだろうね。
呟きながら、床の上に座り込んだまま見上げた正臣の髪が酷く眩しくて帝人は目を細めた。
いつもと同じ明るい髪の色。「正臣」の色だ。
再度街を照らす太陽の光を吸い上げて、弾いて。
「あー。あっちに少し残ってっかも」
別に虹なんて見えなくても良いよ。
唇の内側に浮かんだ言葉は、小さく呟く間も無く身の内に溶けて消えた。