一方通行


「あれ、また何かやったの」
 勝手に上がり込んだマンションの扉の前で——残念ながらそれでも家の鍵を勝手に開けて入らない程度の常識は備わっている——臨也が壁に凭れたまま座り込んで仕事用の携帯電話をいじっていると、こつこつと聴き慣れた靴音が聴覚を揺らした。
 落ちてきた言葉に見上げると、往診帰りだろう、白衣を着たままの新羅が、まるで格好の獲物を見つけたような笑い方で見下ろしてくる。
 主治医だなんて言ってみたほうが相応しいくらいに、臨也が此処を訪れる理由なんて高校時代からいつでもひとつきりでしかなかった。黒い服のお蔭で痕は隠されているものだけれど、それでも鼻をつくような血のにおいが微かに残っているのを咎めるように一度だけ、ぴくりと新羅が片眉を揺らした。
「ああ、……静雄?」
「以外に誰がいるって?」
「さあ、ほかに臨也相手にそこまで出来る奴がいたら参考までに教えてほしいところだけどね。まあ、入りなよ」
 口を開くだけで微かに走る痛みに眉を寄せた臨也に小さく笑って、歓迎するように無防備に扉を開かれる。ようこそ、だなんて、こんな状況に随分と似つかわしくもない挨拶が軽やかにマンションの廊下に響いていた。
「そろそろ君たちも少しは変わると思ったんだけど、相変わらずだなあ」
「良く言うよ、思ってもないくせに」
 弾んだ声を隠そうともしないのは新羅の利点だろうか、それともその逆さだろうか。思わず呆れたように零れた溜息にも反応ひとつ返ってくることはない。ぱちんっとつけられた蛍光灯が視界を不自然に照らしている。
 暇だったのだろうか。あるいは同居しているあの運び屋の姿がないからだろうか。何処となく上機嫌に奥まで通されるのは、それでも毎度のことでしかない。
 金を払ってくれるならちゃんと客とみなすよ、だなんて言いながらも、余程のことでもない限り救急箱ひとつで済ませられるのだけれど。それでも病院に行く羽目になるよりは数段階マシだろうと通い続けるのは臨也の癖のような判断でしかなかった。
「で、今度は何をぶつけられたの?」
「ガードレールに脇抉られそうになっただけだよ。飛んできた自販機までは避けたんだけど、掠っただけで結構痛いなんて、冗談じゃないよね」
「相変わらず無茶苦茶だね、君たち」
「シズちゃんが常識外れなだけで俺は至って善良な市民だし、そのへん一緒にしないでほしいなあ」
「はいはい、そうなるとこないだの傷が開いただけかな。とりあえずその暑そうな上着脱いで」
「……まあ、いいけどね」

 池袋に足を運ぶたびに小さいようで随分と大規模な騒ぎに発展するのは、最近では臨也の意思とは少しばかり関係のないところに起因していた。
 自分の前に現れたということは何かを企んでいるに違いないだなんて思い込みのように、顔を合わせた静雄が一方的にキレてくるその所為でしかない。まあ、その勘が面白いくらいに当たっているときもあるのだけれど、だからと言ってその、喧嘩とも呼べないようなやりとりが然して何かに転じたことがあるわけでもないのだ。
 空を舞う自動販売機だの標識だの、そのどれをとっても弁償をしているのは彼自身なのだから、その点については構わないと言うべきなのかもしれない。ひょいひょいと逃げ回ることだって、適当にあしらうことだって、臨也からすればもう慣れたものなのだ。
 それは高校時代からの延長だとも言えたし、けれど確かに違ってきているとも言えるだろう。それでも、数年前にあった逮捕劇の顛末とも、そろそろ意味を違えているような気もしていた。
 いつでも何か言いたそうに笑う新羅が、踏み込まないようでいて一番深いところに気付いているのだと知っている。
 高校時代、何を思ったのか自分たちを引き合わせたのは新羅だった。
 好奇心には逆らわない彼らしいと言えばそうかもしれないと、思うようになったのは割合に最近の話なのだ。別段、何を企んでいたって構いはしなかった。まるで実験体にでもなったような気分だなんて折原臨也としてはあまり釈然としない話でもあったけれど、そう簡単にてのひらでは転がるつもりもなかったし、そんなことだっていつでも、盤上の出来事でしかなかった。

 血が足りていなかったのだろう。
 急激な眠気に負けるように、然程時間のかからない治療が終わってからソファを借りて睡眠不足を補って、それから起きてもまだ運び屋は帰っていなかった。そういえば仕事の情報を売ったような記憶もあったな、と頭の隅で考えながら起こした身体の節々がきしきしと音を立てている。
 同居人のいない隙に掃除に勤しんでいるのかごみ袋を引き摺って部屋を行き来している新羅が相変わらずの恰好のまま自室から顔を覗かせた。
「あれ。起きたんだ。とりあえず問題はないと思うけどね……まあ、暫くは大人しくしときなよ」
「ああ、もう帰る」
「珈琲でも淹れようか」
「……いや、キッチン借りるよ」
「じゃあ僕の分も淹れてくれないかな、」
 はいはい。と、腰を上げて。慣れた調子でキッチンに向かう。最初からそのつもりだったんだろう、なんて訊かなくたってわかっている。インスタントを出されるくらいなら自分で淹れると臨也が言いだしたのはもう随分と前で、それは別に深い話でも何でもなかった。
 薬缶を洗う所から始めなければいけない程度には使われていない道具があれこれと眠っているところまで、高校時代からあまり変わっていないだけなのだ。
 それでも簡単な計算尽くしの会話はそれなりに心地好いものでしかない。臨也の日常の大半は、いつだってそんな風に形成されているのだ。
 人間が好きだ。と思うのは、きっとそんな風にいつでも其処に介在する思惑と愚鈍さと織り交ぜているからだろう。
 絡み合って身動きが取れなくなって千切り合って、愚かなくらいの必死さで誰もが足掻いている。その構造の上に臨也は立っていると思っていた。

 それでも、いつでも静雄からの感情にばかりは、意図的なものが介在することはなかった。
 それが逆に、臨也にとっては億劫で仕方がなかったのだけれど。そんなことを考えることすら、彼がすることはないのだろう。高校時代から変わらずに、静雄だけがいつも、臨也の計算外に存在していた。
 まるで本能のように嗅覚のように、気付かれては仕掛けられる喧嘩にその力以上の何かが内含されていることはなかった。それでも、それがただの単細胞というだけならば、きっとまだマシだったろうに。
 足許を掬われても知らないよ、なんて、臨也が言ってみても聞き入れられることはないだろう。
 それでも、静雄を取り巻く環境はここ数カ月で随分と変化しているようだった。仕向けた罠にも事件にも、それまでの静雄ならば簡単に嵌っていただろうに。逃げることを覚えて、誰かを頼ることを覚えるだなんて、想像もしていなかった。まるで何もなかったかのように自分たちの間は相変わらずの状態を保っているというのに。
 ただの計算違いだと言えばそれまでなのだろうけれど、以前より随分と周囲に溶け込み始めた彼の心境の変化まではまだ、臨也のなかで簡単に整理のできるようなものではなかったのだ。取り立て屋の仕事を始めた、だけの頃よりもずっと、ふと目を逸らしている間にまるで、まるで。

 マンションから足を踏み出すと、外はもう随分と暗くなっているというのに、空気が籠った熱を抱いていた。熱帯夜になるでしょう、なんて予想は当たっているのだろうか。それでも頬をなぞる風はそれなりに心地好い。
 痛み止めを噛み砕いて吐き出した息が、緩々と声になるかならないかの途中で掻き消えて。じんじんと脇に残った傷口が疼いていた。
「ああ、……やだなあ、人間くさくなっちゃって」
 化け物は化け物らしくしていればいいのに。
 なんて、言ってみたところで臨也のぼやきめいた独り言なんて聞いている相手はいないだろう。
 今日も何処かで平和島静雄が暴れていることくらいは想像をめぐらせなくたって飛び込んでくるこの街の日常でしかない。その形がじわじわと変わっていることに、誰が気づいているだろうか。
 自分があの男に手加減なんてされたらおしまいなのだ。いっそ死んでしまいたくなるだろう。そんな事になったらあの手がこの血に染まるのも悪くないと思ってみるのに、それでもきっと静雄は最後の最後で留めなど刺してもくれないに違いない。
 だからまるで気紛れなふりをして、きっと、何かを確かめるように自分はこの街を我がもの顔で歩いているのだ。

 歩く道筋はいつでも決まっている。
 なるべく人通りの多くないところ、治安の悪くないところ、灯りのしたを歩けるところ。
 それからファーストフード店かコーヒーショップがあれば猶のこと。猫のいる小道だったらベストかもしれない。だなんていつでも、ただ一方通行の道でしかないのだ。
 ゆらゆらとまるで熱に魘されたように視界が彷徨って、それから見覚えのあるシルエットを捉えるまではいつでも然程の時間を有さない。安心すればいいのか、吐き捨てれば良いのか。
 無意識の産物だと、言えばそうでしかないのだけれど。意図的だと、言っても嘘ではなかった。

 ああ、ほら駄目だ。やっぱ死んでもらわないとね。
 そう笑ってポケットの中の刃物を撫でると、聞き慣れた低音が臨也の名前を呼んだ。