意思確認


 とりあえず。
 合意だった、と思う。

 闇の中で目覚めて状況を認識した帝人が最初に考えたのは、確定性と主体性に乏しい確認だった。あまりの曖昧さに、これは酷いと帝人は僅かに顔を顰めた。
 身動ぐだけで軋んで悲鳴を上げる体は、しっかりと掛けられた布団の中に納まっていた。血管に鉛を流し込まれたように重い体を捻って手を滑らせれば、シーツが糊が効いた綺麗なものに換えられていることが分かった。さらりと肌を撫でる感触は、おそらく数時間前に握り締めたそれとはまるで別の物質のようだった。
 そういえば何時間経ったのかと、重い腕を上げて枕元を手で探る。指先に当たった何かを引寄せれば、掴んだ拍子にボタンを押した携帯の液晶画面に現在時刻が浮かび上がっていた。表示された時刻は帝人の体感と大差なく、夜よりは朝に近い頃だった。
 時刻の割に部屋が暗いと、痛みを恐れながら帝人は身を起こした。汚れていた筈の体はすっかり綺麗に清められて、着替えまでされていた。マメな男だと、長年の付き合いに慣れ切って久しく思わなかった感慨が久々に掠めた。
 ひやりと冷えた床に足を下ろすと、熱の名残と疲労に鈍っていた意識が引き戻される。帝人はしばらく立ち上がらすに、痛みに近い冷気に足裏を晒した。そしてまた、甲斐甲斐しいとしか言いようのない丁寧さだけ残した男との、数時間前の行為について考える。
「合意、だったよね」
 うん、と頷いた帝人に、その実感は薄い。拒まなかったのだから合意になるのだろうというのは、あくまで一般論に照らした推測の域を出ない。そんな曖昧さだけで体を明け渡した自分という人間は一体何者なのだろうかと、何の切実もなく帝人は考えてみたが、答えは見えなかった。
 しかし、明らかに残されていた抵抗の余地を、帝人が選ばなかったことだけは確かだった。帝人の手首を押さえた手には、風に飛ぶ紙を押さえる重石程度の力しか入っていなかった。ほんの少しでも帝人が抗えば、彼はきっと即座に身を引いたに違いない。そう疑わずにいられるくらいには、酷く丁寧に扱われたという自覚はあった。
 拒絶を受け入れる覚悟をしながら、それでも伸ばされた手の意味は何だろうかと考えた帝人は、手に握ったままだった携帯を持ち上げた。履歴から番号を呼び出し、発信ボタンを押した。三コールで切ろうと決めていた電話は、しかし二コール半で繋がった。
『帝人?』
 クリアな声に、帝人は首を傾げた。
「あ、起きてた」
『電話しといて、「起きてた」はねぇだろコラ』
 聞こえる声色に睡魔の名残はなく、正臣の睡眠を邪魔したわけではないと知れて、帝人は少しだけ安堵した。
「ごめんごめん。掛けたけど、多分出ないだろうと思ってたから。まだ仕事?」
『何故そこで、俺が素敵なレディと眠らないようなことをしてるという発想がないのかね帝人君』 
「ありえない仮定をしても仕方ないでしょ」
 正臣の軽口をさらりと切り捨てて、帝人は小さく笑った。そして、正臣の聞いて平均を取り戻した帝人は、少なからず混乱していた己を自覚した。
『つか、マジで何かあったのか。こんな時間に』
「ううん、ちょっと声が聞けたらいいかなって思っただけ。ごめんね」
『……いや、別にいいけどさ』 
 返答までの短い沈黙が、正臣の不審を帝人に教えた。それでも詮索をしない正臣の気遣いに、帝人は緩く息を吐いた。有難いと、帝人は思った。無理に聞き出そうとしない配慮にではなく、隠された不満の底にある、正臣の帝人を案じる心が嬉しかった。
「あ、仕事中ってことは、そこに臨也さんもいる?」
『……いーまーすーけーどー。なんだよ結局俺はついでかよ』
 今度はありありと不興を示した正臣に、帝人は今度こそ声を上げて笑った。
「むしろ、臨也さんがおまけかな」
『ならば許す。ちょっと待て』
 ヒヒヒと笑った正臣の声が遠ざかり、音が絶える。雑音は、十数秒の沈黙を経て戻ってきた。
『やぁ、こんばんは帝人君』
 出会った頃と何一つ変わらない、腹の底に冷たい何かが走る美声に、帝人は緩く肩を竦めた。
「こんばんは、でいいんですかね」
『俺と正臣君はもう、三時間ほど前におはようの挨拶を済ませたからね』
 残業ではなく深夜労働だったのかと、時間の割りに闊達だった正臣の声を思い出しながら、帝人は携帯を握り直した。
『それで、ご用件は?急ぎの仕事はないだろうに』
 まるでスケジュールを把握しているかのような臨也の物言いに、しかし帝人は一つも驚かなかった。騒乱の根源、という意味では第一線を退いた臨也だが、その分情報量と精度はあの頃より更に上がっている。そう考える帝人とて、正臣が夜中に働かされている理由に大体の見当がつく程度には、臨也の動向は掴んでいる。
「仕事とは関係なく、個人的に聞きたいことがあるんです」
『個人的に、ね』
 キィと、電話の向こうで軋む音が聞こえた。深く座った椅子をくるりと回す臨也の姿が、帝人の脳裏に浮かんだ。その顔が浮べた性質の悪い含み笑いまで、恐ろしく鮮明に。
『それは、無償って意味かな?』
「いえ、すごく不躾で下世話な質問なので、僕が出来る範囲でなら何かしらのお礼はするつもりです」
 さらりと告げた答えに返ったのは、弾ける様な爆笑だった。
『そりゃあいい!一体何を聞かれるのか、すごく興味があるなぁ』
 それを肯定と受け取って、帝人は大きく息を吸った。臨也に対してすら本当に酷いと思う問いを口に出すには、帝人でも相当の覚悟が必要だった。事によっては答えを貰うどころか、臨也を完全に敵に回すことになるかもしれない。だが、そのリスクを背負うことになったとしても、帝人はどうしても臨也に聞きたかった。
「静雄さんに初めて触れたとき、どんな気持ちでしたか」
 ぴたりと、椅子の音が消えた。火薬を含んだかのような沈黙は、恐ろしく長かった。流石に無礼も過ぎたかと帝人が口を開きかけたとき、耳に臨也の長い溜息が飛び込んできた。
『本当に、不躾だねぇ』
 静かな臨也の声に怒りはなく、投げ遣りな諦念と、ささやかな憐憫しか感じられなかった。
「怒らないんですか」
 多少の、どころか多大な意趣返しは覚悟していた帝人は、ぱちりと瞬きをした。臨也にとって静雄の話題とは、昔と状況が大きく変わっても、最大の禁忌であり逆鱗であることには変わりなかった筈だった。
『君がそういう質問をして来るってことは、何があったのか大体の察しがつくからね。君がそれだけ切羽詰ってると知って愉しませてもらっている分は、差し引いてあげるよ』
「何で、分かるんですか?」
 心から疑問に思い、帝人は問い返した。おどけた声で、しかし臨也が再び吐いた溜息は深かった。
『そういう所だけは、君とシズちゃんはよく似ている』
「そういう所?」
『自分に向けられる感情に、とことん鈍い』
 断言されて、帝人は閉口した。自覚はないし認めるつもりもないが、そう評されるのに慣れてしまうくらいには、繰り返し言われてきたことだ。最も多く聞いた声を思い出して、帝人は電話を耳に当てたまま顔を上げた。薄く開いた扉の間から差し込む光を眺めながら、ただ臨也の声を待った。
『―――怖かったよ』
 気負わない声が、あっけなく真実を投げて寄越した。
「……何が、ですか?」
『全部説明したら、多分日付が変わるよ。ただ、そうだなぁ』
 聞こえる忍び笑いは、惑う帝人が見えているかのように、心底から楽しげだった。八つ当たりだと言いかけて、似ていると言われた人の顔を帝人は思い浮かべた。
『どんなに恐ろしくても止まらない自分が、一番怖かったかな』
 臨也の言葉に、帝人は音にはせずに感嘆の声を上げた。熱に浮かされた中で、少しも楽しそうでも嬉しそうでもなかった彼の顔を思い出して、心底から納得した。彼の中にそんな衝動と恐怖があったことを驚いて、一方でそれを当然のことと受け止めていた。
 そして、漸く知った。
 拒まなかったことが、すでに一つの答えだったのだと。
「ありがとう、ございました」
『どういたしまして』
 電話の向こうで、ギシリと軋みが大きく鳴った。臨也が立ち上がったのだろう。
『黒沼くんに、よろしく』
 強く吸ってしまった息が、帝人の喉を鳴らした。その間に、通話は切れた。帝人はゆっくりと電源ボタンを押すと、携帯をベッドの上に投げ出した。体の痛みを無視して、両手を後ろに突いて仰のいた。
「ひとでなし」
 そんな言葉が、勝手に口から零れ落ちた。十年前の契約一つに胡坐をかいて、自分がどこまで鈍感でありつづけたのかを、帝人は思わずにいられない。
 全部終わって、契約がただの形になっても傍にありつづけた彼の在り方にまで、帝人は責任を持たないし、持とうとも思わない。それは彼の選択であり、帝人が是非を沙汰して良い事ではない。それと同じく、何も言わずに彼が差し出していたものを、無自覚で無頓着に受け取っていたことをどう考えるかは、帝人だけの問題だ。
「どこがいいんだか」
 こんな身勝手な人間の、何が良くて彼は手を伸ばしたのだろうか。帝人は本気で疑問に思った。幾ら考えても答えなど見つからないという結論だけを得て、帝人は立ち上がった。足裏はすっかり冷えて、床と同じ温度になっていた。
 その足をぺたぺたと鳴らして、帝人はドアを開けた。煌々と灯りのついたリビングに、彼はいた。ソファの隅で、身の置き所を持て余したように蹲っていた。吐息が色を帯びるほどの寒さの中で、シャツとスラックスだけの薄着でゆらゆらと体を揺らす彼を見て、帝人は部屋に引き返した。ベッドの上に撓んだ毛布を手に、再びリビングに戻った。丸まった体に毛布を被せ、一人分のスペースを空けてソファに腰を下ろした。
 窓の外は仄かに白味を帯び、少ない星は光に駆逐されようとしていた。程なく藍色は消え失せて、気温も上がる。そうして彼が目を覚ましたら、まずは話をしようと、帝人は決めた。彼が怯え、自分が怠ったものは、言葉だ。
 長い長い話を、それこそ同じ光景を再び見るくらいは掛かるだろう長い話をして。それから、この一人分の距離をどうするかを、二人で考えようと。
 帝人は小さく欠伸をすると、そっと目を閉じた。ゆるやかな眠りに引き込まれる前に、帝人は忘れてはならないことを自分に言い聞かせた。

 まずは、合意だったと伝えなくては。