「子供みたいな人だよね」
 竜ヶ峰帝人はにっこりと笑ってそう言った。



 校門を出て線路にかかる長い歩道橋を渡れば、繁華街はすぐそこだ。子供の教育上良くないだの何だの色々言われている場所ではあるが、学校の立地からして今更である。できるだけ寄り道をしないように、なんて教師の言葉にも、まるで説得力がない。形骸化した注意を頬杖をついて聞き流しながら、正臣は欠伸をかみ殺した。教師はちらりと正臣を見たが、特に注意する様子もない。
 授業後のホームルームには午後特有の緩んだ空気が漂っていて、冬の終わりを告げるような優しげな日差しがその雰囲気を助長している。それに加えて教師の長話とくれば、眠くなるのも仕方がない。
 せめて帝人が同じクラスならなあ、と正臣はぼんやりと考える。こっそりとちょっかいをかけたり、からかって楽しめるのに。そうでなくても、帝人の様子を観察して嫌がられたりするだけでも愉しい。小学校の頃いつもやっていたような悪戯とその時の帝人の反応を思い出し、正臣は小さく笑う。

 別に、正臣に友人が少ないわけではない。クラスの中心に近い場所でいつも馬鹿なことを言って皆と笑っている、それがここでの正臣の位置だ。生来の物怖じしない性格とその明るさもあって、クラス外の知り合いだって多い。
 それでも、正臣にとって帝人は別格だった。
 帝人は故郷と自分とを繋ぐ唯一のチャネルであり、一番の友人だった。帝人だって、けして友人が少ないわけではない。気は弱くとも、真面目で周りの状況をきちんと把握できる彼は、クラス内でもそれなりに上手くやっていた。それでも、正臣がクラスまで迎えに行くと、わざわざ来なくてもいいのにと言わんばかりに肩を竦めながらも、嬉しそうに迎えてくれたものだった。
 引っ越しで離れてしまってからも、帝人は正臣が伝える池袋での出来事を目を輝かせて聞いてくれた。実際には画面越しにメールのやりとりをするだけで、帝人の表情なんて見えるわけがなかったのだけれど、彼から送られてくるメールには隠しきれない興奮が滲んでいた。「正臣はすごい」と素直に綴られる賞賛を茶化しながらも、そう言われる度にひどく誇らしくなったのを覚えている。
 その言葉は正臣に力をくれる魔法の言葉だった。彼がそう言ってくれるなら、自分には何だってできる気がした。
 数年間のブランクを挟んでも、帝人は正臣の知っているままの帝人だった。真面目で慎重で、それでもどこか人をほっとさせる暖かさがあった。そして、自分の中の帝人があの頃と変わらないように、彼の中の正臣も昔のままなのだろう。さすがに面と向かって賞賛される機会は減ったけれど、それでも時折素直にこぼされる「正臣はすごい」という言葉は、今の正臣にはひりひりと痛い。
 ひさしぶりに再会した街角で、昔の俺はセピア色、なんて言ってみせた正臣を見て、帝人はまた冗談をとでもいうように笑った。正臣はその笑顔にどうしようもなく救われて、それ以上に後ろめたくなった。かつて帝人が慕ってくれたような、格好良い自分はもうどこにも居ない。ここに残るのはただの抜け殻だ。それでもそれを悟られるわけにはいかないと、正臣はいつものように笑ってみせる。
 彼の前ではせめて格好良い自分でありたいと、それは正臣の意地のようなものだった。馬鹿らしい話だと自分でもとっくに理解している。


 長引いたホームルームが終わり帝人の教室を覗けば、彼は窓枠に腰掛けて携帯電話を操作していた。メールでも打っているのか、カチカチとやたら速いキータッチの音が、静かな教室に響いている。
 近寄って声をかけようとした正臣は、ふと違和感を覚えて眉を寄せた。窓際でメールを打っているのは確かに帝人だ。けれど、高速で文字を打ちながら画面を見つめる彼は、正臣が今まで見たことのない顔をしていた。何の感情も映さない静かな顔。その口元だけが微かに笑っている。
 ひやり、と背筋に冷たいものが走ったけれど、それが何なのかは正臣にも分からなかった。別に、何が恐いわけでもない。そうは思ってはみても、その妙な違和感だけは誤摩化しようがない。
 冬の終わりを告げる薄い光を背に受けながら携帯電話を見つめる帝人は、正臣の知らない人間のように思えた。
「あっ、ごめん、気づかなかった!」
 正臣に気づいた帝人が顔を上げてこちらを見る。途端、彼が纏っていた静かな威圧感は瞬時に霧散して、その顔にはもう先程の違和感の名残もない。昔とかわらない笑顔が、正臣に向けられている。
「お前、俺様がわざわざ迎えにきてやったっていうのにそれはないだろ!」
 そう茶化して帝人の肩に腕を回せば、うわっと声を上げた彼がくすぐったそうに笑う。苦笑の中に許容を滲ませた柔らかな笑みに、ああやっぱりさっきの違和感は気のせいだったんだな、と正臣はそう結論付けた。



 校門を出て繁華街へと足を向けた途端、視界にちらつきはじめた黄色い布に、正臣は心の中で嘆息する。正臣の与り知らぬところで増え続けている黄巾賊。それはここ一年で急激に姿を増して、街の様子を変えつつあった。もう二度と近づかないと誓った世界が、またじわじわと正臣の日常を浸食していく。
 いっそのこと、言ってしまえば楽になるのかもしれない。そう考えたことは一度や二度ではない。自分のしてきたことを洗いざらい話しても、帝人は別に正臣を責めたりはしないだろう。卑怯な自分を、全部受け入れて許してくれるかもしれない。むしろ、その可能性の方が大きいと正臣にも分かっている。でも、許す許さないに関係なく、こんな自分を帝人に知られることこそが、正臣には堪え難い恐怖だった。
「正臣?」
 考え込む正臣に何かを感じたのか、帝人が不思議そうに名前を呼ぶ。自分の中の動揺を帝人にだけは悟られるわけにはいかないと、黄色い布を無理矢理意識から追い出した正臣は、いつもの調子で声を出した。
「いや、今日はどうすっかなーと思って」
「あ、ちょっと本屋に寄りたい」
 いつも通りの会話を交わしながら、ふたりはサンシャイン通りを歩いていく。こうやって放課後に繁華街をぶらぶらと歩くのが帝人と正臣、そして杏里の日課だった。その杏里は、今日は美香と買い物に行くのだと先に帰ってしまっている。
「じゃあそうすっか。……それにしても、お前とふたりだと華がない。これは由々しき自体だと思わないかね帝人君!!」
「思わない」
 あっさりと正臣の言葉を否定した帝人は、何かを思い出したように言葉を続けた。 
「でもまあ、ちょうど良かったんじゃないかな」
「ちょうど良い?」
「うん。最近園原さん、何か悩んでたみたいだし」
「……お前、そこまで気づいてたんなら、なんで『僕が相談にのってあげるよ!』ぐらいのことが言えないんだ!はっ、しまった俺がのってやれば……!」
 千載一遇のチャンスを逃した!と叫ぶ正臣は清々しいほどいつもと変わりがない。そんな正臣の様子に安心しながらも「往来で叫ぶのは迷惑だからやめてね」と冷静に突っ込んだ帝人は、適当な相づちを打ちながら言葉を続ける。
「はいはい。でもこういうのは多分、張間さんが適任だと思うよ」
「お前がそれを言うか」
 呆れたように口を開いた正臣に、帝人は透明な瞳をぱちんと瞬かせた。
「え、何で?」
 彼女達は確かに依存関係で成立してたんだろうけど、だからといって、彼女達がお互いを大切に思っていないということにはならないよ。帝人は事も無げにそう口にする。
 帝人のこの他人に対する洞察の深さは、正臣がとても気に入っていて、そしてこっそりと憧れているもののひとつだった。帝人は決して器用な方でもなければ、目立つタイプでもない。でも実は、頭の回転も速ければ洞察力も高いのだと、正臣はその長い付き合いの中で知っている。


 正臣は、実は帝人こそ凄い人間だと思っているのだが、それを口に出したことはない。
 帝人が尊敬を口に出せるのは彼の素直さがあるからこそであって、常人が面と向かって相手に告げるには少しばかりハードルが高い。女の子に対する愛の言葉の方がよっぽど簡単じゃないかと正臣は常々思っている。
「じゃ、俺たちは男の友情でも深めにいきますか!」
 肩を組んで声を上げた正臣に、また冷静な言葉が返る。
「え、なにそれ気持ち悪い。……って冗談だよ正臣!そんなに落ち込まないで!」
「帝人ー…っ!お前はいつからそんな奴に……」
 がっくりと大げさに項垂れてみせた正臣の顔を、帝人は慌てて覗き込む。
 ふたりは沈黙してから目を合わせ、お互いににやりと笑ってそれから、たまらなくなったように噴き出した。帝人の毒舌が気を許した人間にだけ発揮される特別なものだと、正臣だってとっくに知っている。だからこれは、ただのコミュニケーションだ。
 まるで漫才のようなやりとりを繰り返しながら歩く街は、先程までの閉塞感が嘘のように正臣の心を軽くした。池袋に帝人を呼んだことを、後悔していないといえば嘘になる。それでも、こうやって笑い合うだけで心が軽くなる相手が傍に居てくれることの幸福を、正臣は充分に理解していた。
 だからせめて、帝人が何事にも巻き込まれずに、平穏な高校生活をおくれるようにと心から願う。その為だったら何だってしてやろう。
 そう思っているのに、事態はいつも正臣の与り知らないところで進んでしまう。
 ほら、今だってそうだ。

「こんばんは」

 大通りの向かいから歩いてきたのは、黒い服に身を固めた臨也だった。
 正臣が一番帝人に会わせたくないと思っている人間が、さりげなさを装って近づいてくる。
「あ、臨也さん、こんばんは……にはちょっと早くないですか?」
「あはは、そうだね」
 帝人の言葉に、臨也が笑って答えた。正臣の口の中に、苦いものが広がる。
 できることなら、このまま回れ右をしてこの場から立ち去ってしまいたい。臨也は正臣の中でトラウマと同義だった。顔を会わすたびに否応なく引きずり出される過去の記憶。子供は絶対に大人に勝てないのだと思い知ったのも彼がいたからで。
 帝人はそんな正臣の様子を不思議に思いながらも、臨也に向かって口を開く。
「どうしたんですか?」
「いーやちょっとね、仕事でね」
 彼が帝人を操ろうと思えば、ひねた自分を動かすよりも遥かに簡単だろう。なんせ帝人は素直で世間知らずなのだ。けれど、臨也と関わると碌なことにならないと言ったところで、事情を知らない帝人に効果はない。帝人にとって、臨也はただの知り合いだ。
 帝人と臨也が世間話に花を咲かせている間、正臣は黙ってその話を聞いていた。ふたりが交わす会話はあまりにも当たり障りのない話題過ぎて、逆に気味が悪い。何を企んでいるのかと、臨也の顔をじっと見つめてみても、その顔には柔らかで胡散臭い笑みが浮かぶだけで、正臣には何も読み取ることはできなかった。


 じゃあそろそろ時間だからと身を翻した臨也を目で追いながら、正臣は小さく息を吐いた。
 彼に会った後はいつもこうだ。身体が無意識に緊張して、まるで金縛りにあったかのようになってしまう。
「大丈夫?」
 心配気な様子の帝人に、正臣は顔の前で大きく手を振った。
「いやー、俺、あの人苦手でさ」
「言ってたね」
 そう飄々と答えてみせて、ひとまず帝人を安心させる。臨也のことが苦手なのはもう隠し様がないけれど、帝人に心配をかけたいわけではない。
 雑踏に消えていく臨也の背中は、どことなく弾んで見える。今にも鼻歌を歌いだしそうな雰囲気の彼を見遣った帝人は、正臣に向かってにっこりと笑ってこう言った。
「なんか、子供みたいな人だよね」
「……誰が?」
「え、臨也さん」
 話の流れからしてそうだろうとは思ったが、それでもまだ信じられなくて、問い返せば駄目押しされる。
「ちょっと帝人、目ぇ大丈夫か……?」
 彼が子供であろうはずがない。子供である自分はかつて、大人である彼にいいように利用されたのだ。
 まじまじと帝人を見返せば、当の本人は別に変なことを言ったつもりはないのだろう、きょとんと首を傾げている。
「あっ、別に外見がじゃないよ。ただなんか、こう、いつも楽しそうっていうか……」
 それだけなんだけどね。そう言った帝人の言葉に他意が無いのを確認して、正臣はうーんと首を傾げる。帝人の洞察力は認めているが、今回ばかりは的外れな指摘だろう。悔しいけれど、臨也ほどの人間がただの高校生に何かを悟らせるとも思えない。
「……ま、いいけどな」
 ただの印象の話に拘るのも馬鹿らしいと、正臣はそこで思考を放棄した。





 ——何故急に、こんなことを思い出したのか分からない。
 まだ数ヶ月年も経っていないのにずいぶんと遠いことのように思える。あれからすぐ後に、黄巾賊とダラーズの間で抗争めいた出来事があり、帝人がダラーズのボスだと知った。けれど、その後のごたごたのせいで、正臣は彼とまともに話すらできていない。
 そして今の自分はといえば、なぜかあれほど苦手でたまらなかった臨也の元で働いている。
「集中して欲しいんだけど?」
 そういって笑う臨也の顔は言葉と裏腹に酷く楽しそうだ。上がる息を殺しながら、正臣は臨也を睨みつける。
「集中してないのはどっちだよ」
 そうだ、臨也が急に帝人の話題を出してきたからだ。こんなことの最中に、他人の名前、それもよりによって帝人の名前出してくる辺り、臨也の性格の悪さは筋金入りである。頸動脈をするりと撫でた掌が首の後ろに回って、また深く口付けられる。だいぶ慣れてはきたが、息があがってしまうのはどうしようもない。そんな正臣の様子に、子供だねえ、と笑った臨也は彼の唇に歯を立てながら告げる。
「『子供は大人に勝てない』」
 それはかつての正臣が、黄巾賊の皆に言い聞かせた言葉だ。その言葉を実感させられた相手から言われるなんて、屈辱以外のなんでもない。けれどもちろん、臨也は分かってやっているのだ。
 薄く広がる鉄の味に、唇が少し噛み切られたのが分かる。この変態め、と正臣が目線だけで抗議をすれば、でも君、痛い方が好きだよね、と事も無げに返される。
「君は“傷つけられたい”タイプの子だよ」
 だって、そのほうがいい顔をするからね。そう勝手なことを言って、臨也は正臣をソファの上に転がした。天井の暗がりを見つめながら、正臣はこれまで何度となく使ってきた言葉を頭の中で反芻する。

『子供は大人に勝てない』

 ……ならば、臨也を子供みたいだと言った帝人は、この男に勝てるのではないだろうか。

 ふと思いついた考えに、正臣はひっそりと苦笑を零す。これじゃ、ただの言葉遊びだ。
 そうして正臣は、今も帝人に頼り切っている自分の弱さを自覚する。帝人に頼られているように見えて、頼っているのは正臣なのだ。昔からずっとそうだった。

「妬けるねえ」
 まるで正臣の考えていることを読んだかのように、臨也がそう嘯く。思ってもないことを口にしてのしかかってくる臨也に、正臣はただ身体の力を抜くことで応えた。
 





 彼は知らない。