セルティ・ストゥルルソンはリビングのドアを開けると、見慣れない光景に目を瞬かせた。
…とはいっても彼女は首無しのデュラハンであるからして、それはあくまでも彼女の心情を表した比喩表現に過ぎない。まあ、人間だとしたらこういう反応をしただろう、ということだ。



 彼と彼の友人について



 いつもなら真っ先に労いの言葉をかけてくる新羅が、今日に限っては大人しい。というよりも、セルティが帰ってきたことにさえ気づいていないようだ。緩く組んだ腕に片肘をのせた彼は、口元に指の背を当てて思索に耽っている。
「!……セルティ! お帰り!!!」
 珍しこともあるもんだとセルティが肩を叩くと、びくりと身体を震わせた新羅は振り返った先に彼女の姿を認め満面の笑みを見せた。
「ごめんよセルティ! 僕としたことが愛しい君の帰宅に気づかないなんて! こんなことでは僕の愛が疑われて当然だ、お詫びに明日からは全力で玄関まで迎えにいくよ、いってらっしゃいのキスだって毎日し……ぐっ」
『別にいいから』
 最初っから疑ってなどいない。
 抱きつかんばかりの勢いで言い募る新羅に一発手刀をお見舞いして落ち着かせると、セルティはまるでため息をつくかのように肩の力を抜く。
『誰か来てたのか?』
「ああ、ちょっとお客さんがね」
 そいって新羅はセルティの目線を追った。前述の通りセルティには顔が無いが、そんなことは新羅にとって何の問題にもならない。彼には、彼女の表情も、目線も、手にとるように分かるのだ。

 彼女の視線の先、ソファの前のローテーブルには、マグカップがふたつ置かれていた。

 この男に客に茶を出すという発想があったとは。そうに驚いたセルティは、その中になみなみと注がれた緑茶を見てその驚きを呆れに変えた。テーブルの上に、目一杯に緑茶が注がれたマグカップ。かなりシュールな光景だなと考えて、別に役目を果たしているのだから問題は無いのだろうと思い直す。些末なことに拘らない、新羅らしいといえば新羅らしい。
「あっ、さてはセルティ、呆れてるな? でも考えてもみたまえ、この家に若い子が飲む飲料の類いが置いてあると思うかい? いやいや、僕だってまだまだ若いつもりではあるけれどさすがに制服を纏えるような歳ではない訳で……あっ、でもセルティはまだいけると思うんだ、今度その黒いライダースーツをセーラー服とかにしてみてたらどうだろう、いや、でもブレザーも捨てがたいな、清楚な君にとても良く似合うんじゃ、……ちょっとセルティ、人間の関節的にこれは無理なんじゃないかな……! 痛い! 痛いよ!」
 放っておくといつまでも話し続けていそうな新羅の腕を、影で捻って黙らせる。とはいっても、一応手加減しているのだから問題はないし、まあ、いつものことである。

 それにしても、この家に子供が来るとは珍しい。
 新羅の口ぶりからすると、高校生かそれ以下か。そんな子供がこんな男に一体何の用事があるのかと、セルティは純粋に不思議に思う。
 捻られた腕を涙目で摩っていた新羅はそんな彼女の様子を見て、小さく笑って口を開いた。
「気になるかい?」
 ん?とセルティを覗き込むように笑う新羅の目は優しい。こうやってセルティを覗き込むように話すのは新羅の癖で、こうされるたびにセルティは無いはずの顔を覗かれているかのようだと酷く照れくさくなる。けれど、そんな素振りは少しも見せず、彼女は淡々と文字を打ち込んだ。
『守秘義務に関わるならやめておく』
 新羅の顧客には秘密事が多い。まあ、闇医者なんてものをやっている時点で、新羅の存在そのものが守秘事項だろう。ただの興味で新羅の手を煩わせるつもりもない。そう言ったセルティに、新羅は笑って答える。
「いいや、守秘義務でもなんでもないよ」
 それから、子供のような目でセルティを見上げてこう言った。
「だって、臨也のことを聞かれただけだからね」


「そんなに不思議かい? 僕と臨也が高校で一緒だったって知らなかったっけ?」
 あまりに予想外の答えにきょとんとしたセルティを、新羅はソファに座らせた。もちろん、さりげなく自分の隣に引き寄せるのも忘れない。セルティは特に気にした様子もなく、画面に文字を綴っている。
『いや、それは知っていたが……。臨也のことをお前に聞きにくるというのが」
「ああ、それは僕もちょっと驚いたけどねえ」
 心配しなくても別にキナ臭い話じゃないよ、そう言って新羅は苦笑した。けれど、子供が臨也のことを聞きにくるという時点でロクな話であるはずがない。
「いやいや、本当に。普通に質問されただけだよ。シンプルかつ、深い問いさ。『折原臨也はどういう人間なのか』ってね」
『どういう……?』
 それはずいぶんと漠然とした問いだ。一体何が聞きたいのかよく分からない。不思議そうに首を傾げるセルティを愛おしそうに見つめながら、新羅は答える。
「例えば……そうだね、こういう場合は、何を考えて何を好んで、どう動くのか……みたいなことだろうね。その人間の行動理念とも言っていい。明確に意識しているかどうかの差こそあれ、誰しも持っているものさ。ある種の本能とでも言えるんじゃないかな」
『……よく分からないな。私が首を探しているようなものか?』
 言葉を選びながら綴られる文字に、セルティが意味を計りかねている様子が見て取れる。新羅はふんふん、と頷くと右手の人差し指をピッと立てた。
「じゃあ、身近で分かりやすい例を挙げてみよう。例えば僕の父親。言わずと知れた解剖マニアだ」
『あれは本当にどうにかしたほうがいいと思うぞ……」
 かつて自分の身に起こったことを思い出したのか、セルティの身体がぶるりと震える。
「ああ、ごめんねセルティ! 君を怖がらせるつもりはなかったんだ!」
『いや、いい。いいから、説明を続けてくれ』
 話を中断しかけた新羅は、液晶に綴られた文字に肩をすくめると渋々と説明を再開する。
「…じゃあ続けるけれど……、ええと、一応そのマニアっぷりにも理由があって、父は構造を知ることが好きな人間なんだ。特に、生き物を生き物足らしめている構造、つまり、生命の維持を行っている仕組みを知りたいと考えている。どうやって生き物は生きているのか。そりゃ食物を食べて、酸素を取り込んで、とかそういう答えもあるんだけど、父が知りたいのはそれじゃない。どの器官が、どの細胞が、どの科学物質がどのような働きをして生命を維持しているのか。そういった生命の構造を知ることが好きで、だから、結果的に解剖マニアみたいなことになってる」
 セルティは指の背を口元——とはいっても、そこには黒い霧が漂うだけだが ——に当て、新羅の話に耳を傾けている。そんな彼女の様子を微笑ましく思いながら、新羅は言葉を続けた。 
「さて、これを臨也に置き換えるとどうなるか。趣味で情報屋をやってるぐらいの人間だから、その行動にも理由がある。まあ、本人は人間が好きだからって言ってるし、その言葉に嘘はないんだろう。でも僕からいわせてもらえば、彼は人間の汚いところ……というか、隠されているものを暴くのが好き、みたいなところがある。そうだな、僕の父が身体的な構造マニアなら、臨也は精神的な構造マニアだ」
『ますます意味がわからないんだが』
 小さく首を傾げるセルティに、新羅は右手の人差し指でくるくると円を描きながら口を開く。
「簡単なことさ。臨也は人間の精神を、もっといえば心を、解剖するのが好きなんだ。これには麻酔もメスもいらない。言葉ひとつで人を麻痺させて、言葉ひとつで切り刻むんだ。そうして取り出した人の本性……そうだね、その人の持つ執着みたいなものを、彼は嬉々として観察するんだよ。飽きてしまったらそこでおしまい、面白ければ延々と。気に入られた奴は災難だね、あいつは容赦ないから」
『ただの性悪だな』
「あはは!そうだよ、セルティ、まさにその通りだ。ただ、その誰かにとって不運なのは、臨也が言葉を使って人を揺さぶる能力に長けていたってことだね。常人なら、言葉だけで人を丸裸にするなんて芸当、できっこないんだ。けれど臨也にはそれができてしまう。甘い言葉に鋭い言葉、そんな風に使い分けてね。……彼は言葉だけで人の内側に入り込んで、解剖してしまえるんだよ」



***


「シャワーを浴びてくる」とリビングから出て行くセルティを笑顔で見送った新羅は、ソファに深く背を預け天井を見上げた。ふう、とひとつ息を吐いて、そのままぼんやりと昼間のことを思い出す。


『折原臨也の事を教えてください』
 そう言って尋ねてきたのは、まだ高校生になったばかりにみえる少年だった。
 彼がどうしてこの家までたどり着けたのか、新羅は知らない。けれど、『折原臨也』の名前を出してくる辺り、彼も普通の学生というわけではないのだろう。基本的にセルティ以外はどうでもいいと思っている新羅だが、友人の名前を出されたなら話は別だ。……それに、人並みに好奇心もある。
 とりあえずリビングに通してお茶を出すと、明るい色の髪をした彼は『おかまいなく』とその見目に反して礼儀正しい反応を返してから、折原臨也はどういう人間なのか教えてほしい、と言ったのだった。

 少し話せば、彼が臨也に対してあまり良い感情を持っていない事はすぐに分かった。けれど新羅の目には、それは悪意や憎悪というよりも、恐れに近い感情のように映った。
「僕はただの同級ってだけで、別に何を知ってるってわけじゃないよ?」
 むしろ、君の方が彼を知っているんじゃないかな。そう返してしまえるぐらい、少年の観察眼は優れていた。ただ、それでも分からないのだと彼は言う。予測できないのだと。その言葉はまるで、小動物が天敵から逃れる為に相手を観察するような、そんな切実さを持って響いた。
「守りたいものがあるんです」
「臨也から?」
「…… はい」
 それは難関だなあ、と新羅は思う。そんなもの、真っ先に臨也に狙われるに決まっている。人間が持つ様々な執着は、臨也の大好物だ。彼もそれを充分に理解しているから、こんな行動に出ているんだろう。見知らずの人間に会って情報を聞き出すなんてこと、博打以外の何でもない。
「うーん、でもなあ……君が知りたいようなことは多分、僕は何も知らないよ」
 そういう話ならますます自分の出番はない。そう告げる新羅の言葉に、少年はそれでもいいと即座に返してきた。何かひとつでもいい、何でもいいから情報が必要なのだと、彼の目がまっすぐに新羅を見る。

 澄んだ目をした、頭のいい少年だった。
 今時の若者という言葉を体現したかのような外見とは裏腹に、道理を弁え、己の力量を把握している人間。それは時折迫り上がってくる感情を、理性で押さえているような態度からも伺う事ができた。 およそ高校生らしくない態度ではあるが、誰かが彼をこういう風にしてしまったんだろう。それが誰かなんて、考えるまでもない。

 この少年の在り方を、確かに臨也は好みそうだ、と新羅は思う。
 ごく普通の子供だったんだろう。人よりちょっと賢かっただけで。ただそれだけのせいで、彼はここまで来てしまった。

 しょうがないなあとでも言うように肩を竦めた新羅はゆっくりと口を開く。ただ、その表情はどこか楽しげな雰囲気を帯びていた。
「君がどこまで知ってるのかは分からないけれど……そうだね、あいつが情報屋をやってるのが『趣味』ってことぐらいは知ってるのかな」
「はい」
 そう答える少年の目の奥に、ゆらりと炎が立ち上る。複雑な色をしたそれを新羅が確認する前に、少年は緩く目を瞑じた。その後すぐに開かれた瞼のその奥は凪いでいて、もう、何の感情も伺い知ることができない。
 少年はその一瞬で器用にも感情を飲み込んだらしかった。
「で、あいつが情報屋を趣味にしてるのにも、理由がある。まあ、本人は人間が好きだからって言ってるし、その言葉に嘘はないんだろう。でも僕からいわせてもらえば、彼は人間の汚いところ……というか、隠されているものを暴くのが好き、みたいなところがある。そうだな、僕の父が身体的な解剖マニアなら、臨也は精神的な解剖マニアだ」 
 ああ、君は僕の父を知らないよね、医者だと思ってくれればいいよ。と新羅は何でもないことのように続ける。解剖マニアの医者なんて冗談じゃないはずなのだが、それに突っ込むことができるほど冷静で真っ当な人間は、この場にはいない。
「精神的な解剖…?」
 意味が分からないとばかりに、彼が細い首を傾げる。まだ成長しきってない子供の身体だな、と新羅はどうでもいいこと思う。
「簡単なことさ。臨也は人間の精神を、もっといえば心を、解剖するのが好きなんだよ。これには麻酔もメスもいらない。言葉ひとつで人を麻痺させて、言葉ひとつで切り刻むんだ。そうして取り出した人の本性……そうだね、その人の持つ執着みたいなものを、彼は嬉々として観察するんだよ。飽きてしまったらそこでおしまい、面白ければ延々と。気に入られた奴は災難だね、あいつは容赦ないから」
 君も災難だね、とは言わないでおく。それは本人が一番分かってることだろう。



「ありがとうございました」
 一通り話を聞いた彼は、そう言って丁寧に頭を下げた。玄関を潜る彼の背に、新羅は興味本位で声をかける。
「君がここにくる事を、彼は予測してると思うよ」
 彼が問題なくここに来れたということは、そういうことだ。臨也にとってはこれも計算のうちで、つまり新羅が持つどんな情報を彼にリークしたとしても、臨也には何のダメージもないのだろう。
 その言葉にゆっくりと振り返った彼は、すべて承知だと言わんばかりに苦く笑ってから、もういちど新羅に頭を下げる。

 ああ、そこで黙ってしまえるから、臨也は君を手放さないんだろうに。

 喉元まで迫り上がった言葉を余計なお世話かと飲み込んで、新羅は黙って手を振った。