まちがいのないこと


 闇医者なんて阿漕な商売に手を染めるよりずっと以前、岸谷新羅がまだ、おそらく、清廉潔白な青少年だった時分の話だ。
 彼は保健室の主だった。それというのも、当時の来神高校保健室の利用者が、ほとんど彼の友人である二人の悪童と、その二人に巻き添えを食らった不運な人間たちで占められていたからだ。
 教師たちは二人の悪童、平和島静雄と折原臨也の存在に、見て見ぬふりを貫くというかたちで対処することにしたらしく、たとえ階段の踊り場にガソリンの入ったドラム缶がいくつも転がっていようが、廊下の窓ガラスが全壊の上見事すっからかんになっていようが、彼らは終始知らん顔だった。そこでしかたなしにといった体で、医学知識のある新羅が自ら校医を買って出たのには、もちろん優しさだとか気遣いだとかいう感情は一部たりとも含まれておらず、ただ自分の満足のため、それだけだった。岸谷新羅はそれほどの変人だった。彼は人間、というよりも、人間の身体を暴くことを、一番の趣味としていた。
 しかし何よりも新羅の興味の矛先は、人体と呼ぶにはいささか人間離れしているがおそらく人間であるもの、に対して一心に向かっているのだった。例えば、平和島静雄その人のような。
「特に静雄の身体を治療するのはねえ、おもしろいよ」
「……救いようのねぇ変態だ」
「ひどいなあ、それ、治療してくれてる相手に言うことだろうか……まあでも、正直君はほっといても全く問題ないんだけどね、わざわざ薬塗ったり傷を保護したりしなくてもさ」
 言って新羅はこころもち強かに静雄の傷だらけの腕に脱脂綿を押しつけた。しかし痛みを訴える声があがることはない。平然とした顔で呆れたように見つめてくるのに、新羅は心底楽しげな笑顔で答えた。
「完全に俺の趣味だ」
 にやりと口元を歪めた新羅に、静雄は募る苛立ちをぎりぎりで抑え込んだ。幼い頃からとても人間のものとは思えない怪力を持て余している静雄だったが、もう十七にもなるのだ、いい加減後先考えずにキレることも、以前と比べ十分の一程度には減った。今この男に怒りをぶつければ、あれを治療する者が誰もいなくなってしまう。静雄はちらりと新羅の背後に視線をやった。気づいた新羅がさっさとにやけ面を止めて立ち上がる。
「さてしかし、そうそう君にばっかり手間ひまかけてもいられないんだったね。君より段違いに重傷の患者を、ベッドに転がしっぱなしだった」
 彼の視線の先には、完全に気を失ってしまっている男子生徒が一人、文字通り遠慮もなしに転がされていた。白目を向いてしまってはいるものの、新羅の見たところ、骨の折れている様子も、内臓に傷のついた様子もない。外傷、特に眼窩中心とした顔面の腫れがひどいだけで、失神の原因はただのショックだと思われた。
「可哀想に、キレた静雄の形相に相当びびっちゃったんだねえ。彼いったい何したの。そもそも君が喧嘩相手をここに連れて来るなんて、珍しいじゃない」
 普段ならば、倒れたその場に置きっぱなしにされた哀れな元加害者を、見るに見かねた生徒の報告で新羅自ら治療に赴くという流れになるのに、今日は少しばかり勝手が違っていた。静雄が男子生徒を片腕で抱え持って新羅の元へとやって来たのには、驚きのあまり思わず、「それ今回使った凶器?」と訊いてしまったほどだ。新羅の冗談に、静雄は眉を顰めることで答えた。珍しい反応だった。
「うっかり手加減できなかった。胸糞悪ぃが、これ看てやってくれ」
 だがそう言った彼の腕からも、だらだらとおびただしいほどの血が流れ、真っ白なシャツを汚していた。こちらの方が早急な治療が必要そうだと素早く判断する。ナイフでつけられた傷であることは一目見て明らかだった。臨也でもあるまいし、学校に凶器持って来るのはいかがなものかなあ、でもそれを言ったら静雄なんてそこらへんにあるものなんでも凶器にしちゃうし……いやそれを言い出すと料理に使う包丁でも凶器になりえるんだから所持規制しろって言うのと同じレベルの話だよね——思考が脱線する新羅に、静雄の厳しい視線が刺さる。
「なんでもいいから早くしろや」
 新羅は口の端を引きつらせて頷いた。そもそも存在自体が凶器の人間に、何を思っても無駄だとすぐに悟った。

 傷口の消毒と、痣には湿布。おそらく静雄の負った傷よりもずっと軽いはずだが、いかんせん彼の傷の具合を常人のそれと同じ物差しで測るのは誤りだ。少なくとも感覚的には、男子生徒の具合の方がずっと重傷に見えた。
 それでも彼が手加減できなかったと言う割には、随分と浅い傷で済んでいる。きっと無意識に手加減したのだろうと、新羅は予想した。
「いつもの通り絡まれたんで、手加減しつつあしらってたんだけどよ、その馬鹿、いきなりナイフを持ち出しやがってな。そんであの忌々しいノミ蟲の顔が浮かんじまって——気がついたらぼっこぼこにしてた」
 眉間の皺が格段に深くなった静雄の、キレるぎりぎりのラインを読みながら会話をする。神経をすり減らす行為だが、それを新羅は嫌いではなかった。ちょっとしたゲーム感覚でもあったし、静雄を怒らせないで一日を終えた時の充実感は、ゲームのステージクリアの喜びにも似ていた。
「ああ……もう静雄の臨也嫌いは、反射とかパブロフの犬とか、そんなレベルなんだね」
「あのボケの名前を次口にしたら、お前といえど容赦できねえ」
「僕に容赦するような優しさを君が持ち合わせてたとは初耳だよ」
 そうは言うものの、静雄が自分に対してそれなりに気を遣っていることを、新羅は分かっていた。静雄の編み出した対新羅用の手加減技「デコピン」にも、それは現れているように思う。ただし手加減したところで常人の全力のようなものなのだから、新羅の被る被害もそれなりに大きいのであるが。
「でもま、こうやって自分の怪我させた人間を連れて来るようになったってのは、偉大なる進歩だね。成長といってもいい」
「あ?」
 静雄は怒るよりも先に、怪訝な目を新羅に向けた。新羅は殊更穏やかな笑顔を浮かべていた。
『シズちゃんは、人の痛みが分からないんだ。あいつは鈍感だからね。文字通り、感覚が鈍い』
 そうして新羅は台本を読み上げるみたいに、その台詞を口にした。それが誰の言葉であるのか、静雄にはすぐに理解できた。彼をその、腑が煮えくり返りそうな独特の愛称で呼ぶ人間など、この世に一人しかいない。ぎりと音がしそうなほど拳を強く握り締める。今すぐ怒りをぶつけられても仕方がないと、新羅は思いながらも言葉を止めなかった。
『だから加減ができない。道路標識やゴミ箱で人殴ったらどれほどダメージを受けるか、そんなことも想像できないんだ。だからって力を使わずにはいられない。なぜだか分かるか?』
 普段の静雄からは想像出来ないほど、今、彼は我慢をしている。それを嫌というほど感じながら、おそらくとっくに超えてしまっているだろうラインを、新羅は言葉で突いて回る。きっと静雄が嫌がるところだと、知っていながら触り続ける。それは急所であり、彼の一番奥深くに眠る、柔らかい部分でもあった。
『シズちゃんはさ、身体が鈍感な分、気持ちが敏感なんだよね』
 あ、まずいなと思った時には遅かった。静雄は無言のまま立ち上がり、新羅の襟元を力一杯引っ張る。新羅は衝撃に備えて思わず目をつぶる。その直前に見た静雄の顔は、生涯忘れられそうになかった。次の瞬間見えた壮大なビッグバンに、それはあっという間にかき消されてしまったが。
「……っは、今僕どれくらい意識飛んでた?」
 ちかちかする視界を開けて訊ねてはみたものの、目の前にはもう誰もいなかった。聞こえてくるのはベッドに横たわる、怪我人の穏やかな息だけだ。静雄は怒って帰ってしまったのだろう。新羅はひっくり返っていた自らの身体を起こして、ふらふらと立ち上がった。
「うう、久々に静雄の頭突きをうけちゃったよ……さすがの威力。宇宙が見えたもん」
 いまだがんがんと痛む頭を抱えて、新羅はさっき一瞬だけ見えた、静雄の顔を思い出そうとした。たくさんの星が散らばる視界の隅に引っかかるその表情は、すべての感情が複雑に絡み合い、それは美しいものだった。彼はまごうことなき、人だった。
 脳裏にそれを映しながら新羅は、同じ家に暮らす美しい異形の存在を思った。
 もしも彼女に首から上があったなら、さっきの静雄のような表情を浮かべているに違いないと。