名もなき恋のうた


 子どもを相手にするのは弟で慣れていたと思っていたのは、過信でしかなかったようだ、と気付いたのはつい最近だ。
 ひょこひょこと横を歩く小さな存在を認めて、静雄は溜息を煙草を咥えることで隠す。
 しかしポケットからライターを取り出そうとしたところで、その手は力なく横に落ちた。
「吸っていいよ?」
 不思議そうに尋ねられるが、いや、と唇に挟まっているだけのそれを元の箱へ戻した。
 一連の動きをじっと見つめていた少女、茜、はいく先を失くした静雄の手をその小さく傷ひとつない己の手のひらでぎゅうと掴んだ。
 静雄が驚く暇もなくそのままぐいぐいと引っ張る。
「オイ」
 声をかけるも応えはなく、抵抗しようにも静雄が本気を出せば華奢な茜などひとたまりもないことは容易に想像がつく。結局静雄は振りほどくことなく引力に従って歩きだす。
 喧騒に包まれた池袋で連れたって歩くふたりは異様に目立っていたが、当人たちは気付かず新しく名物としてできたメイドが焼いてくれるクレープ屋を物色する。
「食うか?」
「うん」
 昼過ぎにひょっこり静雄の前に現れた茜に付き合うのはこれが初めてではない。
 どこで仕入れるのか静雄の仕事が空く隙間を狙って茜は現れる。粟楠会の誰かが動いているのだろうか、と見張られていることにいい気分はしなかったが、茜はあれきりむやみやたらに静雄の命を狙わなくなっていたし、喧嘩さえ吹っかけられなければ特にやることもないので付き合ってやっている。
 まさかセルティとメル友で、静雄の情報をセルティから得ているとは想像もしない。
「どれにすんだ」
「いちご生クリームカスタードプリン」
「……」
 迷いなく告げられ静雄は絶句する。いちご、までは聞き取れたが、続きはまるで呪文だ。しかし人見知りの茜が異様な格好の店員(バーテン姿の静雄に言われればメイドも憤慨するだろうが)が聞き取れる声量で注文ができるのだろうか。
 迷っている間に前の女子高生の集団が甲高い声をあげて次々にクレープを手に離れていった。
 いらっしゃいませ、だんなさまーとどこか不機嫌そうな静雄を前にしても笑顔を崩さないメイドがご注文は何になさいますか?と尋ねる。
 静雄は迷った。
「あー……いちご、」
 なんだったか。
「……生クリーム」
 しかし、静雄の困った様子を察したのか、腰の辺りから茜が小さく呟いた。
「生クリーム」
「……カスタード」
「カスタード」
「……プリン」
「プリン」
 それきり茜は黙り込んだ。呪文は終わりらしい。
 静雄はサングラス越しにメイドが「いちご生クリームカスタードプリンですねっ」と満面の笑みを浮かべて復唱するのを眺めて、頷くと給料が出たばかりの財布を取り出し会計を済ませた。
 支払いをする時はどうしても茜の手を離さなくてはいけないが、茜も慣れたもので黒いスラックスを握って大人しく待っていた。
 出来上がったクレープをメイドが躊躇いもなく静雄に渡すのに、複雑な思いを抱きながらもそのまま茜にスライドさせる。茜は嬉しそうに受け取ると、その場でぱくりと一口ふくんだ。
 しかし立ち食いも歩き食いもこの人ごみでは落ち着かない。茜をつれていても奇異の視線が向けられない場所にできれば移動したい。
「公園行くか」
 南池袋公園はここから細い路地を抜ければすぐだ。車通りの多いグリーン大通りを横切らなくてはいけないが、一緒にいれば構わないだろう。
 しかし、歩き出すとすぐに他の問題にぶつかった。
 クレープが大きすぎて茜は両手で掴んでなくてはいけない。そうすると手を繋ぐことができない。自分は身体的能力以外常識人であると信じて疑わない静雄は、流石に女子どもをふらふらさせておくのは危険だと知っていた。従って静雄はクレープを一時自分の左手に、茜の手を右手に非難させる。
 そうして喧騒を抜ける静雄と茜だが、茜がごく僅かに頬を赤くしていたのを静雄が気づくことはなかった。