なにもおきない
風景に馴染むのは、見目に反した臨也の得意技の一つでもあった。
記憶に残らない程度のたち振る舞いも、その逆さも、雑踏で構成されている街のなかでは然程難しくもないのだ。
それでも、あの男は何かのセンサーでも持っているんじゃないかと半ば本気で思ったこともあるくらいには、自分の居場所なんていつでも簡単に見破られるものでもあったのだ。
通り過ぎるなんて距離感でなくても、鼻が利くのだと言ってしまえばそれがまるで真実のように、こちらの気配を察知するのが巧いのは高校時代からの延長だろうか。或いは自分自身の吐息のように洩れている意識の所為かも知れないし、振り撒き続けた毒素の所為かも知れない。
臨也、と、唸るような低い声が地面を伝うように向かってくるその瞬間を、今かと構えているわけでもないのだけれど、住処から四つ離れた駅に降りたその時からある程度の覚悟はしていくものだ。
人通りもそれなりにあるその店先を待ち合わせ場所にと指定したのは臨也のほうだった。文字列とは少し異なる調子で、おずおずと電話口で告げられた用件はまだ転がすには早い種の一部でしかなかった。
相手のホームに飛び込むなら出来るだけ逃げ場所の選択肢は多いほうがいい、なんて言ってみたところで所詮は口先だけでしかないのだけれど。いつだって行動の動機なんて、単純なものなのだ。
季節を先取りしている冷たい氷菓子なのか飲み物なのかわからない桜色の液体を啜って、店の前に備え付けられた椅子に腰を下ろす。
通りに何軒もあるくせに狭い店内のソファ席はいつでも満員で、それでもまだ暑くも寒くもない時期にはそう悪くもないものだ。排気ガスさえ目を瞑ればの話だけれど。そんなものはとうに慣れていた。
ずずっと音を立てて啜りながら軽く脚を組んで、見遣った先に特別な意味なんかは欠片もない。
いつでも街の風景なんてそう変わるようもないのだと、知っているのだ。
「静雄お兄ちゃん!」
なんて、そんな声が聞こえてくるまではね。
ぶっと思わず咽喉を詰まらせたのは臨也だけではないだろう。すらりとした長身を日の高い時間には似合わないようなバーテンダーの服装に収めている男なんて、この街では他に誰がいようか。ざわついた周囲には気付かないように少しだけバランスを崩してからわざとらしく振り返るなんて、「らしくもない」所作が目の端に映って、微かに咽喉を鳴らした。
相変わらず女子供には甘いんだから。
なんて口先で言ってみても、現実味のない言葉はただ少しばかり風に浚われるだけだ。
春物のコートのポケットの中に突っ込んだままの指先が折りたたまれたままのナイフを撫でて、それから行き先を見失ったのはいつもならばそろそろ向けられても可笑しくはない、殺意の不在の所為だろう。
いつもならばそろそろ飛んできてもいい障害物のひとつも姿を見せない。きゃあきゃあと楽しそうに笑う見覚えのある少女を引き連れたその男が、まるで何もなかったかのようにそのまま車道に背を向ける。
それだけで薄らと咽喉を撫でたのは笑う声だろうか、それとも。
「……見るのと聞くのじゃ、大違いだね」
しずちゃん、と。彼をそう呼ぶのはいまでも自分だけだろうか。
立ち上がった拍子に少しだけ椅子が鈍い音を立てて、ポケットの中に入れたままの指先がほんのりと痛みを伴った。
片手に持ったプラスチックの容器は冷たい汗をかいていて、この季節には少しだけ早い。頭の中でカチカチと音を立てて物事が動き出すその前に、テーブルに放り出していた携帯電話が震えて、タイムリミットを告げた。