おおかみのくに


 けっしておおかみをうちへ入れてはならないよ。あいつは、おまえたちのこらず、まるのまんま、それこそ皮も毛もあまさずたべてしまうのだよ。あのわるものは、わからせまいとして、ときどき、すがたをかえてやってくるけれど、なあに、声はしゃがれて、があがあごえだし、足はまっ黒だし、すぐと見わけはつくのだからね。



「かーーどーたっ、あーーっそぼ」
 階段の下から届いた騒がしい声に、門田は作業の手を止める。ちょうど区切りもいいし、今日はそろそろ潮時だろうか。斜め後ろの事務所の壁に掛かっている時計を見、ふっと息をついた。
 五日ほど前からキャバクラのカウンターの改装の仕事をひとりでやっていたが、初日の帰りに道端で六条千景に見つかってしまったのが運のツキ。その翌日から毎日仕事終わりを見計らって千景が遊びに来るようになってしまった。
 一週間ほど休業してカウンターの門田以外にもあちこち改装していたこの店も来週から再開予定で、作業は明日中には終わらせなければならない。少し集中しておきたいところだが……まあ、でもどうにか終わるかな……と、ビニールシートまみれの薄暗い空間を見回した。明日は道具や資材を片づけるために渡草に車で来てもらったほうがいいかもしれない。
 道具の一部を事務所に突っ込んでからバケツや何種類かのコテを裏で洗っていると、待ちくたびれたらしい千景がずかずかと勝手に上がりこんできた。
 今日は一人らしい。とはいえ、最近門田のところに来るときはほとんど一人のような気がする。
「今日も一人か。もうすぐ終わる。ちょっと待ってろ」
「あれー? 俺一人じゃ不満って奴ですか? えー、じゃあ、来週一緒にこのキャバクラ来ようよ。安くしてもらえるんじゃないの?」
「………」
「あ、もっとナチュラルなほうがいい? じゃあ、俺、門田とグループデートしたい!」
「………」
「無視禁止!」
「あのな」
 荷物を全部纏めてから、改めて千景と向き直る。溜息まじりになってしまい、自分でも年寄りくさいなと思う。
「おい、こら、未成年。俺に懐くのは勝手だが、地元の友達とか仲間をもっと大事にしろよ。一生の宝だからな」
 流石に変なことを言ってしまっただろうか。言った端から少しだけ後悔すると、目の前の千景のでっかい目はきらきら、そしてニコニコしていた。
「何だ?」
「そんな説教臭い台詞、どんな顔で言ってるのかな〜って」
 ……会話にならねえ。最近の若者の考えることはわからん。ゴツン、と握った拳を頭に振り下ろすと、唇を尖らせて拗ねたように門田を見た。
「心配しなくても大事にしてるって! 門田だっていつも年下とつるんでるじゃねえか。十年前からずっと一緒だったとは言わせねえぞ! 地元の友達とか高校の友達とかはどうしたんだよ」
「友達は、いたし、今でももちろんつき合いがあるさ」
 ……高校時代の友達。その単語に、不意に脳裏に特定の影が過ぎった。昔のことを思い出した。千景は門田の言葉の続きを待つように、じっと目の奥を覗き込んでくる。
 ……俺は、あの頃、こんな風に真っ直ぐ人の目を見れたかな。
 そんなことを思う。昔も今も性格は変わっていない。客観的なほうだが曲がったことは嫌い。そのせいか貧乏くじを引きがち……だけど。
 だけど、もっと、あの頃はまっすぐに見つめてくる誰かの瞳を恐れていたような気がする。
 ———ドタチン。ドタチン!
 少し耳障りだった自分を呼ぶ声を思い出す。
 どういう風に育ったのか知らないが常識外れのあの男も、真正面から目が合うと、その瞳だけは妙にきらきらしていた。
「門田?」
「……飯でも食うか」
 思わず止まってしまった門田に千景が小首を傾げた。門田は、なんでもないと言う代わりに、荷物を持って身を翻した。


 最初の出会いは覚えてない。
 どうして臨也が「ドタチン」なんて自分を呼び始めたのかも忘れた。
 どうして仲良くなったかは、なんとなく覚えている。一方的に近づいてきたのだ。……酷薄そうな顔をした眉目秀麗なあの折原臨也が。確か高校入学してからしばらく経った後のことだった。理由はよくわからなかった。話をするようになっても臨也が何を考えているかはまったくわからなかったから、門田は自分で適当に答えを導き出した。
 ——多分、臨也にとって人間は四種類なのだと。面白いか、面白くないか。役に立つか、立たないか。どちらかか。どちらでもないか。どちらもか。問いかければ「そんな単純なことじゃないよ」などと減らず口を叩かれるのは目に見えているが、自分にはそれ以上の解釈をすることはできなかった。
 そして門田はその中で「役に立ったから」。……多分それだけなのだ。そして来神で静雄の次に強く、不思議と静雄は俺には喧嘩を吹っかけてこなかったから、おそらくそれだけの理由に思えた。
「どーたーちん、あーーっそぼ」
 放課後、そう言いながら門田の教室に来る臨也をただ受け入れていた時期がある。
 何をしていたのかあまり覚えていない。隠れ蓑のつもりか静雄の視線を避けるように門田のそばを歩いたり、もっと普通の高校生のように放課後だらだらとぼんやりしていたり。一緒につるんで悪いことをしていたわけじゃない。ただ、だべっていた。あのころ臨也が一方的にべらべらと話していた話の九割を、門田はもう覚えていない。遊馬崎と狩沢の会話と同程度には理解不能で、門田にとっては意味のない言葉だった。何のためにここにいるんだこいつとは、常に思っていた。
 だがあの頃……もしかしたら今も、門田は自分に心が広いこと、そして執着心がないことを課していた。臨也に対してもずっと黙って受け入れ続ければよかったのに。
 ——だけどなぜか、それが出来なかった。
 何かを問い詰めたら瓦解する。わかっていたはずなのに。
 知り合って一年ほど経ってから、放課後の教室で尋ねた。荒れた学校にはもう誰もおらず、窓辺に立った臨也が窓の外の何かを見ていた。門田は机の上に座ってぼんやりその後ろ姿を見ていた。
「お前、いつも来るけど、友達いるのか?」
 曖昧な問いかけは、尋ねた瞬間、それなのに臨也は門田が煮詰まっていることまで完全に理解していたのだ。
 瞬時に後悔しても遅かった。
 跳ねるように振り返った臨也は、初対面の人間と挨拶するかのように微笑んだ。逆光で表情がよく見えなかったが、獲物を捕まえた狼のように真っ黒い瞳が楽しそうに光っていた。
「……なんて言われたい?」
「俺に訊くな」
 一歩、窓辺を離れた臨也が近づいてきた。
「……俺たちは、もうすっかり友達だろう? それでいいかな」
「…………」
「そうか、それが君の入口か。望むのならば、どうとでも騙してあげるよ。望むのならば、俺はヤギにでも狼にでもなってあげるけど。君は俺が望むようになってくれるのかな?」
 睨みつけると臨也は笑う。相変わらず何を考えているのかわからないのに、その笑顔に吸い込まれそうになる。
「そう言うところ、いいと思うよ。すごくいい」
 堰が決壊したかのように臨也の言葉は止まらなかった。一方的に見限られる。なんだかそう思った。何もしていないのに。一言、声にしただけで。
門田は堰き止めるために思わず声を荒げた。肩を掴む。子供みたいに臨也は笑った。
「臨也」
「だけど、そうだね。……君は賢いからわかっているんだろう。君の内に入るのは少し面倒そうだよね。返ってがぶっと食べられそうだから」
 嘲笑が、耳元で落とされた。
 思わず拳を握った。「そう言うことを問いたいんじゃない」叫びたい言葉はなぜか出てこなかった。そのまま睨みつけていると、まぶたを落とした臨也がふっと微笑んだ。
「君はもう、駄目かな」


「なあ、なあ、門田、いつも以上に口数少なくない?」
 我に返ると、千景が自分を見上げていた。要らぬことを思い出してしまった。
 もちろん千景には非はない。「悪い」と門田は小さく謝罪を口にした。
 あの頃とは違う。そして、あんな奴はどこにもいない。
「早く酒飲めるようになれよ、千景」
「……飲みたいならそう言えよ。結構飲めるぜ?」
「聞かなかったことしといてやるよ、未成年。焼き肉でも奢ってやるから」
「? なんだかよくわからないけどやったー! 優しいね、ドタチン」
 犬のようにひっついてくる千景をいなすことも出来ずに、門田は歩き始めた。
「お前までその名前で呼ぶなよ……」
 その渾名で呼ばれるたびに、自分は自分の不甲斐なさを思い知らされるのだろう。度量が大きいふりして、それでも抱え込めなかった相手のことを。そうして、今でも無意識に自分を縛るのがあいつのやり口なのだろうか。……さすがにそれは考え過ぎだろうか。
 街はすっかり夕闇に暮れている。光り出したネオンのせいで、街中は猥雑なまでに明るい。
 門田はもう一度、今どこにいるのかわからない男の姿を思い出した。
 それでも、時々心配になる。ちゃんと……かつての友人として。
 あいつはちゃんとやっているのか。誰かに心を許す瞬間はあるのか。誰かと対等に向き合うことができるのか。そして知っているのだろうか。それがとても……尊いということを。
 こんなことを少しでも臨也に告げたら、あいつは鼻で笑うのだろうけれど。
 ——望むのならば、俺はヤギにでも狼にでもなってあげるけど。
 どうしてあの時、望んだことはそういう意味じゃないと怒鳴ってやることができなかったのだろう。誰かの望む姿になんて、誰もなれないこと。そんな風には変われないこと。だけど、それをただ動かずに観察しているだけでも、何も面白くないこと。
「門田?」
 まだ訝しげな千景の頭をぼふっと無暗に叩いた。「なんだよ!」と言いながら、千景はどこか嬉しそうだ。そのままわしゃわしゃと撫でてみる。
 今の門田には群れから離れた臨也の姿はもう見えない。
「でもまあ、心配するくらいはしてやるよ」
 ……多分、これは性分だ。
 一生直らない。
 門田は息をついて、星も見えない淀んだ空を見上げた。