夜が来るまで


 明け方の部屋はひんやりとしていた。カーテンの隙間から見える空は藍からピンクへと、ぼんやりとグラデーションを作っている。室内はほの暗く、部屋の隅に置かれた付けっぱなしのパソコンモニタが唯一の光源だった。
 帝人はすっかり冷たくなったマグカップの中身を啜った。舌が痺れるほど苦いコーヒー。そうして、肩からずり落ちかけているタオルケットを引っ張りあげると、再びモニタに目を向けた。
 もう五時間ほど格闘しているのは、外注で受けたある社内システムのスクリプトで、一度組み上げたそれに新たな仕様を足せという無茶を、急からクライアントに言い渡された。締め切りは本日正午。メニューバーの時計は現在、五時十五分を示している。帝人は深く息をついた。すでにデザイン変更はソースコードとともに手元へ届いている。無理を聞いてくれる後輩を持って僕は幸せ者だね、独り言は泣き言のような体で帝人の口からこぼれ落ちた。
 そのうちカンカンと遠くに踏み切りの音が響き始める。もう始発が動き出している。それまでには仕事を終わらせるつもりだった。今日も定時オーバー。在宅勤務である帝人の精いっぱいの抵抗は、またも有耶無耶のまま押し流されて終わる。
 どろどろとした眠気が眼前をまとわりつき、そのくせ頭の中はやけにはっきりとしていた。仕様自体は組み込めたものの、どうしてもエラーがひとつ消えてくれない。思い当たる要因は片っ端から検証を重ねて、ほぼつぶせてはいる。後もう少しで引っかかりそうなのだ。しかし思考のエンジンだけが思うようにかからない。
「だめだ……ちょっと休憩」
 帝人は伸び上がり、それから膝を擦って窓の方へと身を寄せた。カーテンを引き、窓を少し開ける。途端、朝特有の冷えた空気が入り込み、微睡んでいた体をくすぐる。もう一度大きく伸びをする。
 もたれかかった窓から見える霊園の入り口に、猫の転がっているのが見えた。油断しているのか、腹を見せてはころころと寝返りを打っている。そんな長閑な様子を見ているうちに、張っていた気の、みるみると緩んでゆくのが分かった。猫が欠伸をするのに、つられて帝人は同じ動作を繰り返した。
 そのとき、ぴんと、ひらめくものがあった。ひとつまだ、試していないデバッグを思いついた。脳がしっかりと動き出す感覚。窓を開けたまま、急いでパソコンの前に戻り、手早くスクリプトを書き換える。サーバ上で何度か動作確認を行い、帝人は小さく唇を動かした。ビンゴ。
 そこから全体検証を終え、早々に納品を済ませた帝人は、一息ついて、ようやく背後の布団に身を沈めた。ぼんやりと視線を一周走らせる。ふと開け放したままの窓に気づいたが、たった数十センチですら体を動かすことが億劫だった。それに入ってくる風が心地よかった。さわさわと、それは帝人の短い前髪を揺らした。重く下がる瞼に抗うことをせず、帝人はしっかりと目を閉じる。
 何か、猛烈に恋しくなるものがあった。
 ——この空気を、僕は知っている。本来ならもっとずっと濃く、近しいものだ。
「酸素が、足りなかったのかも」
 ぽそりと呟き、そのまま帝人は眠りに落ちた。


 目が覚めたのは正午過ぎだった。クライアントからの納品に対する返信はつつがないものだった。安堵する間もなく、そのメールには新規案件の相談が続いている。幸い急ぎではないものの、その代わり、個人に任せるにはいささか大きすぎる仕事だった。
「……これはちょっと人手がいるかな」
 人月を算段して、こちらから依頼できそうな数人をリストアップする。目星は即座につき、帝人は承諾の返事を打った。ついでに、無理を聞いてくれた後輩にもお礼のメールを。
 起き掛けの頭は徐々に活発になりかけていた。額にじわりと汗がにじみ始める。室内はすっかり気温が上がり、朝方の過ごしやすい空気とは打って変わっていた。毎年ながら、このクーラーひとつないアパートの夏には辟易する。今はまだ、うだるような暑さという程ではないが、これから本格的な夏が訪れれば、真剣に避暑の計画を立てなくてはいけなくなるだろう。
「来年こそ、うん、来年こそは引っ越そう……」
 そうやって毎年決意していながら、結局十年近く経ってしまった。きっと自分は、すっかりこのボロアパートに根がはってしまっている。外壁に這う蔦のごとく、この池袋の隅っこに。当たらずとも遠からずだと、帝人は自分の思いつきに、くつと苦笑いをこぼした。
 携帯電話が震え始める。先ほど礼を送った後輩からの返信メールだった。帝人先輩も無理せずちゃんと寝てください。何かあったらこっちにもCCされてるんで、対処します。簡単な気遣いと、仕事の話。彼は仕事仲間として、ひどく付き合いやすかった。画面を落としたところに、メール着信が再び告げられる。後輩の、思い出したような追記のメールには、こうあった。
「気晴らしに、どこか出かけたらどうです? よければ付き合います」
 帝人は目をぱちくりと瞬かせ、そうしてふっと笑みを吐き出した。
「珍しく、余計なお世話だよ」
 そう、素早く打ち返した。


 昼間から近所の銭湯で身ぎれいに体を整えた後、帝人は思い立って池袋駅へと向かい、そのまま東武東上線下り急行へと飛び乗った。
 平日昼間の下り列車なんて、急行といえどもほとんど乗客などおらず、帝人は四人がけのボックス席をひとりで占領しているくらいだった。
 窓際に肘をつき、ぼんやりと車窓を眺める。見覚えのある風景はどこまで行っても代わり映えしない。
 そのうちうとうとと眠気が訪れ始める。さっき眠ったばかりだというのに。半分寝かけた頭で携帯を取り出し、さっきの後輩の、そっけなくもお節介なメールを開く。帝人はそれを見て、やはり笑みを抑え切れなかった。一度メール画面を閉じ、今度はアドレス帳を開き直す。そこから新規メールを開く。打ち終えるのに十秒もかからなかった。帝人は携帯を閉じて、同時に目を伏せた。


 地元の駅に降り立ったのは、実に五年ぶりだ。大学入学以来まったく帰省しなくなって、そのままだった。懐かしい、という思いは存外湧いてはこなかった。ここの空気はすぐに肌に馴染む。たった十五年の歳月を過ごしただけのはずなのに、やはりこの地は紛れもなく自分の家なのだと、強く感じる。
 人少ない駅のホームで、帝人は大きく息を吸い込む。濃密な酸素が肺を満たす。これが今の自分に足りなかったものだと、帝人は思う。
 駅前まで出ると、さすがにそれなりに賑わっていた。いつの間にか新しい店が増え、そして記憶にあったはずの店がなくなっている。五年の空白をようやく自覚する。
 携帯で時間を確認して、帝人はフラフラと市街に足を向けた。
 夏の緑は眩しいくらいに光を受けて輝いていた。背の高い木々が山並みの裾を飾るみたいにさわと揺れ、またその足元には色鮮やかな野草や夏の花が咲き乱れている。帝人は夏の花の派手さがあまり好きではない。しかし、夏に何よりも似合うのは、橙を道に散らすノウゼンカズラであったり、背筋をぴんと伸ばした立葵であったりするのを、否定する気にはなれなかった。素直に、これらが夏のために存在するものだと、美しいものだと思えた。
 歩いている内に、次から次へと汗が流れ出し、シャツの首筋を濡らしてゆく。内陸であるここは、そういえば夏の間、ひどく蒸し暑くなるのだった。避暑のために訪れたつもりだったのに、これではまったく目的を果たせていない。今の自分の考えなしな行動が、やけに可笑しく思えた。
 すっかり忘れていた、そのこと自体を思い出した。蒸し暑く、緑の鮮やかな片田舎、そんな自分の故郷のこと。子どもの頃はこの場所で、なんでもない日常を淡々と過ごしていたこと。
 池袋に来るまでの数年間、今目前の景色は目に映るものであったけれど、帝人の意識はあえてそれを見てはいなかった。帝人が自発的に見ていたのは、モニタの向こうの世界だけだった。向こう側は帝人にとっての非日常であり、また、たったひとつの現実——言い換えればひとりの親友との繋がりでもあった。当時覚えていた、彼と彼の住む街に対する憧憬は、紛れもなく本物だったのに、今ではなんの感慨もなく向こう側に馴染んで、根をはるくらいに自分の居場所としている。
 どうしてすぐに忘れてしまうのだろう。十年ほど前までは、一度抱え込んだ感情は永遠に消えないものだと思っていた。それが今はどうだ、覚えた怒りも、寂しさも、寝て起きればきれいさっぱり萎んでなくなっている。そうやって、自分の身を守っているのだろうかと、考えたところで栓ないことだった。
 それなのに近頃は、覚えていたくもないことばかり、思い出すのだ。
 だから臆病なのかもしれない。
 ふっと息を吐き、帝人は再び携帯の時計を確認した。到着してから一時間ほど経っている。それから、山向こうの空に目を移す。空の青はほのかに白みがかっている。日が少しずつ下り始めていた。
 持ったままの携帯が手の中で震え出す。そろそろ来るような気がしていたのだ。メールを確認し、帝人は再び駅の方へと道を戻った。


 改札を出たとことで、ひどく不機嫌な顔をした後輩を見つけ、帝人は思わず頬を緩めた。
「十分も待たされました」
 口を開いた青葉の脇を、ぎょっとした表情の女性が通り過ぎる。華奢で女顔の青葉は、そもそもユニセックスな格好を好むものだから、一見すれば少し背の高い女性に見えなくもない。加えて帝人よりもわずかばかり高い上背が、こじんまりとした頭部を余計に小さく見せていた。隣に並ばれるのを嫌がる人間もいそうなものだが、帝人にとっては慣れたもので、そもそも他人にコンプレックスを抱くほどの自信など持ち合わせていない。
「ごめんね。ちょっと駅から離れてた」
「いきなり呼び出してきたかと思えば、池袋から一時間もかかるとこだし、しかもど田舎だし、すげえ暑いし。いったいなんなんですか」
「ひどいなあ、人の故郷をど田舎呼ばわり……まあ当たってるけど。君が付き合ってもいいってメールを寄越したんだよ。それに僕は、よかったらどうかなって言っただけで、強制はしてないじゃない」
 青葉は眉間に皺を刻んだものの、それ以上の反論はしてこなかった。
 彼が自分の誘いを断れないのを帝人は本当のところ、よく知っていたし、帝人が知っているということを青葉だってきっと分かっている。条件反射のようなものだ。帝人に応えることが、青葉の半ば無意識の癖みたいになっている。だから悪いことをしているという意識も、されているという意識も、おそらくはない。
 駅からの直通路を抜け、ショッピングセンターに入った二人は、そのまま中を素通りして表に出た。店内が涼しかったおかげで、汗はすっかり引っ込んでしまっていた。
 無駄に広い道路と、開けた視界に映る山並みを、青葉の目が物珍しげに捉えた。ふと、彼はこういった田舎に来たことがあるのだろうかと、疑問を抱く。
「なんにもないとこですね」
 青葉の声には少し呆れが篭っているようにも聞こえた。
「あるじゃない。ショッピングセンターとか」
 帝人の返答に青葉は、理解できないといった風に首を竦める。
「池袋にだって腐るほどありますよ。しかもこんなヘボくないやつ」
「じゃあ、山。川とか。あ、今の時期なら蛍もいるんじゃないかな。見たことないでしょ、蛍」
「それもサンシャインの水族館にいます」
 なんだ、つまらないな、ぼそりと零したら、青葉はつまらないのはこっちです、言いながら肩をいからせて先先と歩を進めた。
「迷うよ」
「迷いませんよ、こんな一本道」
 青葉は道行きながら、悪びれた様子もなく、補道の脇に咲いた立葵や、芥子の花を摘んでは手で弄び、飽きたらぽとりぽとりとそれを道端に落とした。道しるべみたいだと、帝人は思う。
「ねえ」
 振り返らない青葉に、帝人は重ねて声を掛けた。
「ほんとに見ていかない? 蛍。きれいだよ。水辺を飛んでいるところを見たら、青葉君もびっくりすると思う。水族館なんかで飼われてるのとは全然違うんだ。星も、プラネタリウム顔負けだし、今は蒸し暑いけど、夜になったら暑さもましになって、多分、気持ちいいよ」
 一定の距離を保って、帝人は青葉の後ろに、落としてゆく花を辿るよう続いた。やがて根負けした青葉がゆっくりと帝人の方を振り返った。物言いたげに少しだけ歪められた表情が、やけに子どもっぽく見えて、帝人は笑い出しそうになるのを必死で堪えた。
「……終電で帰りますよ」
「家、泊まってってもいいのに」
「御免です」
「……さっきほんとはね」
 ようやく隣に並んだ青葉の、視線だけがこちらに投げかけられる。
「正臣にメールしようって思ったんだ。でも、ダメだった。書いて、送信しようとしたところで手が止まっちゃった。だから、青葉君にメールしたんだ」
 言って苦笑いを浮かべると、青葉は横目で視線を寄越したまま、深くため息を吐き出した。
「それをバカ正直に俺に伝える帝人先輩はほんと、人としてどうかしてるって思いますよ」
 呆れた風ながらも、声には怒りの色を含んでいて、それでいてどこか諦観をたたえてもいた。とかく、どうしようもない、と思われていることだけは、帝人にも分かった。
 やおら立ち止まった青葉が、くるりと踵を返す。
「やっぱ帰りますよ、さっさと」
「え、蛍は」
「蛍は見ません。星も見ません。代わりに池袋に帰ったら、サンシャイン行けばいいでしょう。そっちなら付き合ってもいいです」
 山に下る夕日に背を向けて、青葉は帝人の手を取った。そのまま強引に引っ張られるのに、帝人は諦めてついてゆく。
 段々と息づき始めた夜の気配を感じながら帝人は、池袋行きの電車に乗って、あの騒がしい街の真ん中に立つことを想像する。きっと自分はそれを少しばかり久しくも感じ、しかしそれから数十秒も経たない内に、街の呼吸を身につけるのだ。根を張る植物のように、池袋の街に絡まりながら。
 想像は間もなく現実となるだろう。通りを抜け、駅前のかすかな賑わいが見え始めても、帝人の手首を掴む力が弱まることはなかった。
 早く、本格的な夜の訪れる前に、自分たちの巣へ帰るのだ。青葉の手の温度がそう急かしているようにも思えた。