夜と爪切り


 微かにどこからかカツ……と音がした。何かを弾くような本当に小さな音だ。
 気のせいかと思って門田が故意に聞き過ごしていると、再びカツン……とあるかなしかの音が続いた。不快な音ではなかったが軽い響きが耳に残った。まるで何か硬いものを指で弾いているような小さな音。
 日暮れ間近の高校の図書室は人も疎らだ。窓の外の喧騒も遠く、足音や衣擦れの音すらしない。門田は本の紙面に視線を落としたままでぼんやりとあたりを見回した。数人が静かに本を読んだり勉強をしたりしている。何か大きく動いたり落としたりしている様子はない。かといって家鳴りのようなものでもない。
 また小さな音が響いた。右のほう。少し後ろ。
 音がしたほうを今度は逃さず、視線を投げる。
「———……」
 そこにいたのは見知った人間だった。
 図書室の隅、本棚に凭れるように床に座って折原臨也が本を読んでいた。
 俯きがちに、日が遮られて暗いだろうに本を抱えて読んでいる。それがどこか保育園で夜遅くまで誰も迎えにこない子供のように見えたのは、臨也が指をくわえるようにしながら本を読んでいたからかもしれない。
 親指と人差し指で唇を押さえるように、指をくわえている。
 ぼんやり眺めていると再びカツっと軽い音がした。
「ああ」
 ……爪か?
 やっと気づいた。
 爪だ。
 臨也は爪を噛んでいるのだ。その音が微かに響いてきている。
 知らない人間だったら放置しておくところだが臨也ならまた少し事情が違う。勝手に好きなだけ噛めと言いたい所だったが、爪を噛む子供っぽい臨也は少しだけ意外で、単純におもしろいと思った。
 門田はわずかに逡巡してから本を閉じ、臨也へと近づいた。
 一時間ほど前に図書館に入ってきた臨也は「ドタチン、いつもここにいるよねえ」と何度目かわからない言葉で肩を叩いていったし、臨也が図書館に来てお互い気が向いた日には一緒に帰ったりもする仲なのだ。見て見ぬ振りをするのもおかしい。いや、もったいない。
「おい、爪を噛むな」
 叱咤するニュアンスを込めると、臨也はそっと指を噛むのを止め、哲学だかなんだか小難しい表紙の本を閉じてから何食わぬ顔で門田を見上げてきた。
 門田も臨也が座っている隣の埃っぽい床に座り込んだ。そして微かに隠そうかどうしようか迷っている様子の臨也の指を捕まえ、わずかに濡れている指を目の前に晒した。
 ほっそりした指先よりも小さく見える爪は、よく見れば臨也の見かけにそぐわずガタガタだった。
 臨也はすぐに諦めたように肩を竦めた。
「子供の頃、爪を噛んじゃいけませんって教わらなかったのか」
「癖なんだから仕方ないだろ。集中するとついね。ドタチンもそんな細かいことによく気づいたなあ。神経質なの? それとも俺のことが気になって気になってしかたない?」
「あほか。お前が神経質な子供みたいにみせたいなら存分に噛めばいいさ」
 でも……と、門田は臨也の指ではなく爪の先を擦った。噛んで棘のように荒れた爪が指先に引っかかる。
「こんなんじゃ、触るだけで痛いし、何かに引っかかって全部一気に剥けたりするんじゃねえのか」
「えー、だって癖だし。なおらないんだもの。どうやったらなおると思う?」
 完全に開き直ってやがる。門田は小さく舌打ちした。
「知るか」
 爪の先はどれも揃ってはおらず、触れているとなんだか心までささくれ立ってくるようだ。
「注意してきたんだから、改善方法まで提示するのが筋ってもんだよ、ドタチン」
「さあな。噛めないくらい深爪させとくか、噛みたくないくらい綺麗に磨くんだな」
 適当なことを言ってみたが、門田の言葉を聞いた臨也は思いのほか真面目に検討をし始めたようだ。おもむろに門田が掴んでないもう片方の右手をじっと見ている。
「なるほどね……。やすりとかで? ……男が爪をやたらと気にしてるの、ナルシストっぽくない?」
 どの口が言うのだ。指を手放し、あきれて臨也の頭を軽く叩く。
「手前には似合いだ」
 ナルシスト野郎がよく言う。
 吐き捨てれば、臨也は爪を自分でも擦りながら笑った。
「……うん、でも、確かにいいかもね、爪を磨ぐの。確かに自分でもなおしたいと思ってたからさ。それならいっそちゃんと誰かを刺せるくらいまで爪を磨ぐよ。こう、ぴんっと尖らせてさ」
 不意に手のひらを翻して、臨也がぴたりと門田の頚動脈あたりに指を立てた。
 今はまだガタガタな爪は、押し付けられても微かな痛みと引っかかりを感じるだけだ。
「——切れるぐらいに。そうなればドタチンも文句ないでしょ?」
 臨也は笑いながら手のひらをひらひらと振った。
 門田はそして薄暗い場所で陰った陽に照らされた臨也の手のひらをぼんやり眺めた。

 これから先……いつか臨也の爪は綺麗に磨がれるのだろうか。
 その様子を想像すると……少しだけ、後悔に近い感情が競りあがってきた。
 ふっとさっきまで埃っぽい図書室の隅で幼い子供のように爪を噛んでいた臨也の姿が脳裏に蘇る。
 そして急に疑問に思った。
 ……どうして見過ごせなかったのだろう。
 何故だかひどく、見過ごせなかった自分を愚かだと思った。鷹揚なつもりで……つい自分の知っている「正しさ」だけを押し付けてしまったことを。
 それはある意味、自分の感情すら置き去りにしていたから。

 噛んで歪んだ子供っぽい臨也の爪を、そんな癖のある臨也のことを、門田はどこかで好ましく思ったのに。