夜と爪切り


 子供だと、その印象しかなかった。
 話し始めるとうるさいのに話していないときは酷く静かな子供。
 そう思っていた。正直その印象は出会ってから三年間変わらなかった。近くにいても、いなくても、姿を見なくても。
 部屋に来ても来客や仕事で目を離すと何処にも行き場がないように部屋の隅に座ってモニタやテレビを見ていた。膝を抱えて画面を見つめながら考え込むように時々爪を噛んでいた。臨也がその様子を見ていることに気づくと、そっと爪を噛むのをやめた。それが好ましくない癖だとはわかっていたようだ。
 ……なるほど、このしぐさは子供っぽく見えるなと客観的に思った。かつての自分も同じ悪癖があったのだと人事のように思う。だが、己のすべてを自制できないほど自分はもう子供ではなかった。
 自分のことは棚に上げ……からかって、何度か目の前の子供の爪を切ったあげた。磨くみたいにやすりもかけた。綺麗になった爪を好ましいと思った。
「あんまり噛んでると爪の間からばい菌が入ってねえ……いつか爪を剥がさなきゃならなくなるよ。しないように全部の爪を剥いてあげようか」
 子供にするように咎めると睨まれた。もちろん痛くも痒くもない。寝ている間に爪に舐めると苦い薬を塗ったら、翌日物凄く怒られた。自業自得だと笑った。
 ちょっとした戯れだった。懐いているのと同じようなものだ。まあ、狼が人とじゃれ合い噛み殺してしまっても「戯れ」には違いない。
 あの戯れとブルースクウェアの件は自分にとっては同じだった。
 ……それは、彼にとっては大きな違いだったのだろうけれど。
 両方に対して心の底から楽しんでいたけれど、彼はいなくなった。いなくなることもわかっていた。構わなかった。すべてを愉しんだのだから。



「噛む癖、なおってないんだね」
 デスクから遠く離れたソファで臨也が渡した内偵資料を読みながら正臣が爪を噛んでいた。思わずそう呟くと、猫のように顔を上げた正臣が慌てて手のひらを隠した。過剰な反応が面白くて思わず立ち上がる。近くまで歩いて行ってソファの隣に座り、無理矢理手首を掴むと、全身の毛を逆立てた猫のように警戒された。
 奪うように爪を見下ろす。かつて飼い猫をブラッシングするように磨いていた爪は酷くささくれだっていて少しだけ落胆した。
「前みたいに切って手入れをしてあげようか」
 手を離してデスクまで戻る。確認するように振り返ると、正臣はじっとソファの上で縮こまっていた。引き出しに入っている爪切りとやすりと不要な紙を手にとって踵を返すと、ぽつりと正臣が呟いた。
「もう夜ですよ。夜に爪を切っちゃいけないし、親の死に目にあえないし、とにかく大変なことになるから結構です」
 ぎゅうっと手のひらを握っている。
 確かに外は夜だ。背後の窓の向こう、夜空は暗く街灯と遠いネオンの明かりだけでうっすら明るい。星は見えるだろうか。東京ではたくさんの星は時々しか見えないけれど。
 臨也は愉快な気分で大股で近づき、もう一度ソファに腰を下ろした。
 握り締めた正臣の手のひらを掴む。強引に指を一本開かせると抗うように力が籠められる。
「どうして夜に爪を切ってはいけないか知ってる?」
 無理矢理爪切りを当てる。ばちり、と適当に切ると正臣はさすがに大人しくなった。皮膚まで切れてもいいと思ったが、そこまで切れなかったようだ。
「……っ、最悪。……知らない」
 引き抜こうとする手首を握って引き寄せる。
「諸説あるけどさ。世を詰めるという語呂合わせから早死にするとか、単に衛生的な問題とか、暗いところで爪を切ると見えなくて深爪をする恐れがあるからとか。あとはさ、落とした爪をさ、食べに来るんだって。妖怪が。姑獲鳥だったかな? その妖怪と一緒に凶事がやってくるらしい。面白いよね」
 爪の白い部分がぎざぎざに傷んでいる。
 自分もこれを幼い頃からずっと噛んでいた。止められなかった。楽しくもないし、もちろん美味しくもなかったけれど。
 ふと、興味を惹かれて噛んで痛んだ正臣の爪を臨也も噛んでみた。なぜかつて——子供の頃——この行為を繰り返したのか……今は思い出せない。
「あんたが妖怪だよ……」
 正臣が呆れたように自分を見ているのがわかる。
「まあ、普通に切ってあげるからさ。二十一世紀の明るい部屋に妖怪もないよ。妖精ならいるけど」
 臨也は爪を噛むのはやめ、大人しくなった正臣の爪を爪切りで整えた。それから一本一本丁寧にやすりをかける。自分のをするのとは少し勝手が違ったがこれも懐かしい行為だった。
 しばらく無言のまま、指に触れていた。
 かつてのように整っていく指を見つめた。
 安堵のような気持ちが掠めて息をつく。
 指を滑らせるとひとつひとつがすべらかだ。
「ほら、綺麗になったよ。何回か続ければもっと綺麗になる。それまで噛むのは我慢して」
 正臣が嫌そうに顔を顰めた。
 目が合った。
 何かを臨也に告げようと口を開き、だが言葉が見つからなかったように正臣は唇を閉じた。気にせず臨也は手のひらを掴みそっと自分の頬に充てた。爪を立てられても痛くない。
「……これで、誰も傷つけないよ」
「あんたが言うな。……一番言っちゃいけない、あんたが言うな」
 そして「死ねばいいのに」と呟いた正臣が、不意に臨也の指を取った。
 歯を立てて、思いっきり噛みつかれた。カツ……と爪を噛み切られた音がする。それから正臣は臨也の指をぎゅうっと握って祈る様に呟いた。
「臨也さんのところに妖怪が来ますように。そしてあらゆる凶事が降りかかりますように。言葉に出来ないくらいの酷い目に遭いますように」
 合わせた正臣の手のひらを今度は臨也も握ってみる。

「ねえ、爪を噛むのって楽しい?」
 ……ふと、綺麗に整えられた正臣の爪を唐突に噛みたいと思った。
「え……」
 今度は懐かしさではなく、それは強烈な衝動だった。
 臨也は口を開いた。語るためではなく噛むために。
 噛みたい。
 噛まなければならない。
 思えば、自分の卑しい衝動と醜い爪と向き合うのが嫌いではなかった。そうせずにはいられない矮小な自分を笑うのは嫌いではなかった。その癖を咎められることも。そして自分はもう大人だ。噛んでめちゃくちゃにしても磨くことができる。もっと上手く取り繕うこともできる。
 正臣が驚いたように自分を見ている。
 指先を口に含んで歯を立てた。
 噛み千切る。そのまま指を口に含む。
 子供のように安堵する感覚を、臨也はぼんやり思い出していた。