雑音と信仰者


  緩々と吐き出した息が毒素のように白く濁っている。
 異常気象だ、などといってしまえば一言でしかないような気温の変化は、以前からだったか今年初めてだったかなんてことを、正確に記憶してはいなかった。
 それでも、三月にしては随分と冷たい空気が背骨を奮わせて、黒沼青葉は少しだけ眉根を寄せた。夕刻からちらちらと降り出した雪は、気が付けばまるで嵐のように視界を埋め尽くしている。コートのポケットから取り出した指先がちりちりと悴んで、塞がった筈の傷痕をまだ抉っているようなそんな錯覚を招いていた。
 色とりどりの傘が家路を急ぐように駅へと吸い込まれていくのとは反対に、青葉の数歩前を行く背中は迷いなく広がった水溜まりの上を歩いていく。ぱしゃんぱしゃんと時折立てられる音が子供のようで、少しばかり口許を緩ませるのだけれど、振り返らないその表情が相反しているだろうことも知っていた。
 虫だって殺さないような顔をしている、と、評されるのは青葉であり、それ以上に前を歩く彼のほうでもあった。出会った頃からまるで変わらない人の好さそうな、気弱そうな素振りを見せる平素ならば、水面を避ける無駄な努力を本気でしているものなのに。
 夢中になると他には何も目につかないんだから。
なんて、言ってみたところで何処までが真実かなんてことはわからない。何を考えているのかなんて、彼——竜ヶ峰帝人のことなど、全てを知っているような顔をして本当はいまでも掴めないままだった。
 その辺りの店先で拾ったビニール傘を広げた青葉の先で、帝人は降りしきる雪など気にも留めていないように歩みを緩めない。差し出してみたところで気付かれもしないだろうと、反対の手にもう一つの傘をたたんだまま持っているなんて我ながら不可思議な光景だ。
 気付けば少しだけ低くなった帝人の項に滴が落ちて消えていくのを目線に捉えて、青葉は薄らと口許を歪めた。

 僅かに一年も経たないあの頃から変わったものなんて、青葉にとってみれば身長と体重くらいのものだった。
 成長期の恩恵はなかなかのもので、細身の身体に拍車はかかったものの、小学生に間違われるようなとばかりは、さすがにこの頃では言われなくなっていた。
 想像よりも早く伸びた手足を持て余すように節々がきしきしと音を立てて、眠れなくなるような痛みを伴う日もあるのだけれど、それだって慣れれば然程の問題でもないことを知っている。そろそろ市販の鎮痛剤では効かない気がするなんてことばかりはちょっとした問題だろうとも思ってはいるが。噛み砕くように摂取するのがもう癖のような習慣のようなものでもあったのだ。
 あともう少しすればこのひとを見降ろせるだろうかと頭の隅で考えて、けれど別段そこに深い感情があるわけでもない。せいぜい、後ろに立っていても対峙した奴らの顔が見えて便利だな、という程度のものでしかないのだ。横になって並ぶことが滅多にないのは先輩後輩という関係性の所為ではない。そういう意味ならば学校帰りのときのほうがすぐ隣にいることが多いのだ。
 それはただ単純に、店先の硝子に幽かに映り込んでいる帝人の横顔が時折、校内では見えない色に染まるのばかりを待ち望んでいるような青葉ひとりの歪んだ願望でしかないのだろう。青葉から話しかけなければ、命令口調の言葉でさえ、二人きりの空間で彼の唇を震わせることは滅多にないのだ。なにをしに行くのだとか、なんで着いてきたのだとか、そんな会話はもう随分と前にするのを辞めていた。
 そろそろ利用できなくなるだろう外見も、別段最近では出番もない。むしろ、多少は腕っ節でも鍛える必要があるかもしれないだなんて、思うのは危なっかしい背中をどうしても追いかけずにはいられないその所為だろう。古い友人たちが聞けばまた頭の中を疑われるか声を出して笑われるだろうけれど、ただ、青葉の思考回路の中核にはもう随分と、帝人ばかりが存在していたのだ。

 春休みに入ってますます人の出入りが多くなったこの街はまたなにもかも飲みこんで、僅かに続いた眠りから目を醒ますだろうか。
 多くのひとが何かを失って、もしかしたら得たかもしれない出来事の数々を忘れたわけではないのだけれど、それは青葉にとってみれば些末なことでしかなかった。まあそれなりに面白かったね、なんて言うにはまだ早いということを、何処かで理解っている。最後に笑うのは誰だという問いかけに今なら、すべてを投げ出したって構いはしない。
 楽しそうに携帯電話の画面を開いた帝人が見慣れた映画館の手前で足を止めるのに、つられるような格好で動きをとめる。
 眠らない街だと称される割には、表通りの夜は意外にも早いのだ。ネオン街とも呼ばれる通りならまだ違うだろうが、次々と灯りを落としていくこの付近には終電間際にもなれば殆どひとがいない。待ち合わせをするには丁度良いとは、この天気では言えないのだけれど。
 落ちてくる雪は次第に粒を大きくしていって、首都圏の交通網などひとたまりもない勢いで足許に積っていく。肩にも頭にも降らせた雪をそのままにしている帝人に伸ばした指先は、振り払われることはなく水滴を掬いあげた。
「——風邪ひきますよ」
 まるで薄闇に主張するように其処だけ明るい自動販売機で購入した暖かいミルクティーの缶を、軽く頬に押し当てたのは別段何という他意もない。どうぞ、と笑えば、想像した以上にきょとんっと見上げてくるのが口許を遊ばせる。ああほんとうに、このひとは。
「……ああ、ありがと」
 まるで当然のようにそうやって笑う素振りばかりは校内で見かける仕草と殆ど変らない。いつだって、誰にでもそう接する彼の無防備さは、ほんとうのところはその正反対の意味を持つのだろう。誰も彼もが油断して、心臓を一突きされるまで気付かない。
 かちかちかち、と鳴らした携帯電話をポケットに突っ込んでから、両手で摩るように缶を抱きこんだ帝人に傘を差し出してから、ポケットに引っ掛けていたもう一本を開き直した。
 雪は深々と降っていて、まるで何事もないように街の喧騒を掻き消していた。薄らと目線を細めて大通りを見遣る彼の傍に背中を付けて吐き出した息は、白く濁って空に混ざっていく。早く早く早くと、咽喉のなかに詰まった欲望が感情を纏わずに吐息だけで洩れてくる。想像に歪ませた唇から落ちる言葉は声を伴わない。
 早く、なにもかも、この街のすべてが平伏せば良いのだ。このひとに。
 
「春はいつになったらやってくるんだろうね」
 そう言って笑う彼の唇が息を吐いて、暦の上ではとうにやってきたはずの春は、どこかに鳴りを潜めていた。